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2007年06月27日

ミャンマー編1-2

メイミョの風に吹かれて

 広島YWCAで集めた募金が10万円になった。翻訳家の紀子さんと連れ立ってミャンマーに行くのは1998年3月と決めた。Aさんの神学校で催される研修会で被爆体験を語る、卒業式と彼女の結婚式とに列席するという予定もあった。

 ヤンゴンからマンダレーまで621キロ・13時間、列車の揺れと騒音は並ではなかった。さらに、Aさんの待っているメイミョに向かうのは外人専用のタクシー。だが、それはボロボロの日本製軽トラックだった。

 神学校の教室は天井からぶら下がっている裸電球が1個だけで、ガラスが割れた窓は厚紙で補修してあった。

 被爆体験を語っている最中、私は、こんな貧しさに耐えている学生たちに、ヒロシマを伝える必要があるのだろうかと考えていた。だが、それは杞憂だった。彼らは我先にと、核兵器を持たないこと、争わないこと、憎しみを持たないことが、世界平和の原点であると発言して下さった。しかも、現時点でも被爆者が病床にあることを心配して祈りを捧げて下さった。

 校長先生に募金を渡すとき「電球を増やすとか、校舎の修理にお遣いください」と言ったら、「形のあるものは壊れます。貧しい学生たちの生活を支えるために遣いたいです。そのほうが実りがあります」と言われたので、言葉を失った。

 その夕方、町で小柄なオバアサンに声を掛けられた。彼女は「学校には電灯があるけれど、一般の家には電気がこないの。学校にはテレビがあって町の人に見せてくださるの、私は『おしん』を観に行くのよ」と、言われた。

 私は、自分勝手な尺度持っていたことを知ると同時に、校長先生の言葉を胸で反芻した。

 卒業式は簡素だが荘厳だった。

 その翌日はウエディングドレスを着たAさんが馬車に乗って町を闊歩した。学生たちが育てた豚が披露宴の食卓に載った。

 披露宴が始まって半時も経たないうちに招待客が次々と姿を消した。と同時に窓から見物していた人たちが空席に殺到して食卓の料理を食べはじめた。「婚礼では貧しい人たちが入れ代ってご馳走を頂くのが風習です。そうでもしない限り、我々はお肉を食べるチャンスがないのです」と、町の人に教えられた。

                     「写真説明」
被爆体験を聞く学生たち
裸電球1個だけの教室は、つねに薄暗い
(校舎は旧イギリス軍用の建造物で、建設半ばで撤退したそうだから、階段も教室も危険が一杯)