2007年06月27日
アメリカ編1-4
平和教育のすすめかた
98年9月、オハイオ州ブラフトン。
ジーンさんの家にステイした最初の夜、被爆体験を話して欲しいと言われた。夕食後でもあるし翌日の平和授業で話す予定になっているので手短に話していると、「私の愛する生徒たちは小学校3年生なのよ。お願いだから、日本の文化とか童謡を教えて上げて」と、涙声で懇願された。ベッドの中でどうしたものだろうかと考えているうちに夜が明けた。
1時限目は彼女の授業の参観。名指しされた女児が朗読を始めた。児童たちはてんでにパソコン、寝転がり、カードで言葉遊びをしているので不思議だった。
2時限目になった。ケイコ・ムラカミと紹介されたので「アジアの多くの国では苗字を先、名前は後から呼びます。私は村上啓子です」と、自己紹介をした。孫がお世話になっている保育園から託された千羽鶴を机の上に広げると「本当に、子どもたちが作ったの?」と感嘆の声があがった。「歌を教えて上げる」と言うと拍手が起こった。私でも簡単に訳せるので「春が来た、春が来た、どこに来た・・・」と歌うと、児童たちも歌いだした。
ふいに「啓子、ゴー」と、ジーンさんが目配せしてくれた。
「私が体験したヒロシマのことを聞いてください」と言って、手短に被爆体験を語った。賑やかだった教室が静まりかえって恐ろしいくらいになった。
私に駆け寄って手を握ってくれる子、涙を拭う子、両手で顔を覆う子。幼いなりに理解してくれたようだった。
午後。近くの大学で平和教育の進め方という授業を参観した。「平和の国を想像して絵を描きましょう」と言えば、どの子も動物を描くそうだ。「一つのテーブルに誰を招くか」と課題を与えて話し合いをする。「貴方の肌は、私が飼っている馬と同じ色ね。大好きよ」と言えるような人格形成を目指して教育を進めるのがいいそうだ。白人と有色人との差別が見えた。
町を通り抜けると高速路。2時間も走ると飛行機の発明者ライト兄の出生地に着いた。視界全てが収穫の終わったトウモロコシ畑。動いているは鳥だけだった。昔・・・日本の広島にアメリカによって原爆が投下されたと言っても、そんなことは関係ないと思っている人たちが住んでいる。
(子どもたちは千羽鶴が好き)
- by 浜井 道子
- at 10:41