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2007年06月27日

アメリカ編1-6

ツインシティー

 ミシシッピー川を跨いだ橋を隔てた隣接都市ミネアポリス市とセント・ポール市とは、双方を合わせてツインシティーと呼んでいるそうだ。

 聞けば、ミネソタ州はネイティヴアメリカンとヨーロッパからの移住者とが半分ずつくらいに居住していて、自由・平等を標榜するアメリカらしい都市だと言う。マルティン・ルーサー・キング牧師、マハトマ・ガンジー師の誕生日には市民が平和行進をするそうだし、8月6日や9日には核廃絶の願いをこめて広島や長崎の祈念集会をするそうである。

 これまで訪問した地は、必ずしも原爆投下された側の私たちを寛容に受け入れてくれたわけではなかった。落胆の連続だった三週間を振り返って、少なからず疲れを覚えていた。

 教会の集会で「ヒロシマ・ナガサキ博物館をアメリカに建てればいいのに」と発言があったのは、私の気持を駆り立てるのに充分な言葉だった。「願ってもないことですが、いろいろの障壁があります。アメリカ市民自身で造ってください」と、応えた。

 98年10月6日、ついに、最後のプログラムであるマカレスター・カレッジでの「原爆と平和集会」を迎えた。ここはアナン国連事務総長をはじめ国際平和に貢献している人材を輩出しているそうで、市民の信頼も篤いそうである。

 夕刻から始まる集会には、学生はもとより一般市民もぞくぞくと詰め掛けて来て、広い会場は瞬く間に満杯になった。最終回のプレゼンテーションだというので、私たちの気合も入っていた。私たち4人の発言が終わった後、会場は水を打ったような静けさになった。司会者が「質問を受け付けます」と、何度も呼びかけたが、誰も何も言わなかった。私たちは落ち着かない表情で顔を見合すだけだった。

 ややあって、「もう充分すぎるほど、皆様に語って頂きました。原爆の実相について学びました。これからは、ともに、平和のために働きましょう」と発言する人があった。次の瞬間、拍手の嵐が起こって、大勢の人が私たちに握手を求めようとして近づいて来た。

 日本人の留学生も数人居て通訳をして下さった。「広島の復興にはどれくらいの歳月がかかったか」とか「アメリカを恨んでいないか」と、質問の内容は同じようなものだったが、真珠湾のことを持ち出す人がいなかったのは、流石にマカレスター・カレッジと評価していいものか、それとも、たまたま、そういう意見に出くわさなかったのか不明である。

 対話が出来ないで、不定愁訴が溜まったまま帰国するのかと半ば諦めていたが、少しだけアメリカに希望を見つけたような気がした。

 


(最終回のプレゼンテーションを終えて)