岡田 恵美子 Emiko Okada

原爆を作ったのも人間、落としたのも人間です

2. 1945年8月6日

その年、姉は12歳、私は8歳で小学3年生、上の弟は5歳、下の弟は3歳でした。8月6日の朝は、早朝に警戒警報が発令され、私たち家族は庭に掘っていた防空壕に入りましたが、しばらくすると解除になりました。「解除」というのは、私たち子供にとっては、「まだ生きているんだ。」という実感がする言葉でした。まだ息ができるという喜びの証しでした。防空壕から出て、父は急いで学校に向かい、生徒たちを連れて、段原で予定されていた建物疎開へと急いで出かけました。第一県立高等女学校生の姉も、学徒動員で土橋地区(現・広島市中区、爆心地から800m)で予定されていた建物疎開の作業に出かけて行きました。「行ってきます。」と言った言葉が、姉の最後の言葉となってしまいました。

残る母と弟2人と私は朝食を食べていました。弟たちは窓の外に、双葉山方面から飛行機が飛んでくるのが見えたと、大急ぎで外に出て、飛行機に向かって手を振りました。弟たちは日本軍の飛行機だと思ったそうです。私は、母と家の中からそのきれいな銀色に光る飛行機が、双葉山から市内中心部へ向かっていくのが見えました。「あ!飛行機!」と思った瞬間、外がピカッと光りました。その光は、まるで私の目の前でマグネシウムをたかれたかのようでした。よく被爆者が原爆の光と爆音をたとえて、「ピカドン」と言いますが、私は、音は全く聞いていません。「飛行機!」と思った瞬間に、粉々になった窓ガラスや木片と一緒に家の外へ飛ばされたのは覚えていますが、その後気を失いました。

どれほど時間が経ったかは分かりませんが、気がついて家を見ると家は傾き、壁も吹き飛び、柱だけが斜めに立っていて、その上に屋根が乗っている状態でした。母は全身にガラス片が刺さり、体中から血を流しながら台所に倒れて奇声を発していました。私はおそらく母の奇声で意識が戻ったのだと思います。

弟たちは庭に出ていましたが、上の弟は偶然軒下にいたためか、大きなイチジクの木の陰になったためかケガはしていませんでした。下の弟は右腕に火傷をおっていました。私は自分自身がどうなっていたか、ケガをしていたか、火傷をしていたか、後になってよく質問を受けるのですが、全く記憶にないのです。

午後になると、駅の方からだんだん火が近づいてくるのが見えました。近所にふとん製造所があり、そこには大量の綿がありました。火はそこまで延焼すると、一気に勢いを増しました。私たちは町内で決められていた双葉山の裾野に掘られた横穴の防空壕に逃げることに決め、急いで向かいました。途中、道の上には死体がゴロゴロと横たわっていて、足の踏み場もありませんでした。死体を踏んだり、またいだりしながらようやく防空壕に着くと、そこは兵隊さんたちでいっぱいで、私たちが入る余地はありませんでした。仕方なく来た道を引き返し、東練兵場に向かいました。市の中心部からゾロゾロと逃げてくる大勢の人たちに遭遇しました。なぜかみんな裸で、誰一人として服を着た人はいませんでした。みんな体中に火傷をおい、火膨れしていました。とても人間と思えないような姿で、まるでお化けのようでした。東練兵場にも足の踏み場がないほどに死体が並べられていました。馬も二頭、火傷を負って死んでいました。私は弟2人と練兵場に残り、母は姉を探すために町の中へと入って行きました。翌日家に戻ってみましたが、幸いにも火は手前で止まっていて、我が家は燃えていませんでした。しかし、ガレキが散乱し、とても寝泊まりできる状態ではありませんでした。再び練兵場に戻りました。

姉は建物疎開に動員され、土橋に行っていました。後で聞いた話によると、原爆が投下された後、その地域一帯で作業をしていた第一県女の生徒たちは、西の方角にある己斐へ向かったそうです。ある者は、途中の天満川にかかる焼け残った鉄橋から落ちて川に流され、ある者は山手川を渡る手前の堤防で力尽き、ようやく己斐小学校に辿り着いた者たちも、翌日には全員亡くなったということです。

母は狂ったように、毎日毎日姉を探すために出かけていきました。残された私たちは、東練兵場に植えられていたトマトを食べたり、近所の家のイチジクの実を盗んで食べたりしながら飢えをしのいでいました。口に入る物であれば何でも食べました。もちろんそれが放射能に汚染されているなどとは知るよしもありません。寝る時も死体と一緒でした。まわりでは人々の狂ったような叫び声やうめき声がたえることはありませんでした。不思議と恐いという気持ちはわきませんでした。

父は原爆投下時には、段原で生徒たちと建物疎開の作業をしていました。段原は比治山という小高い山に遮られていたため、大きな被害を受けることはありませんでした。ところが次々とケガ人や火傷を負った人々が市内中心部から逃げてきて、二日間は民家で被災者の手当を行っていたそうです。手当といっても、生徒たちに近所の家々の押し入れやタンスから浴衣やシーツを取ってきてもらい、それを裂いて包帯代わりに巻いてあげる程度のことしかできなかったそうです。二日後の夕方に、引率していた生徒たちを連れて学校まで戻り、解散させてから家に戻ってきました。学校の校舎はすべて焼け落ちていました。

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