岡田 恵美子 Emiko Okada

原爆を作ったのも人間、落としたのも人間です

3. 被爆後

父が帰ってからは、今度は両親二人で毎日姉を探しに出るようになりました。己斐小学校はもちろんのこと、草津(現・広島市西区)や似島(現・広島市南区)、沼田(現・広島市安佐南区)など、ケガ人が運ばれたと聞いたところへは、どこまでも探しに行っていました。それは4ヶ月ほど続いたと聞きました。それまで母はとても優しく温かい人でした。いつも人に感謝して生きるように子供達に言っていました。ところが被爆後の母は、完全に精神を病んでいました。心の中には姉しかいないようでした。

原爆投下から2日後、父方の祖母が東広島の西高屋から末娘(父の妹)を探しに広島にやってきました。そして2,3日私たちと一緒にいましたが、その後私と弟たちを西高屋に連れて帰ってくれることになりました。広島駅から乗ったのは、死体が積み込まれた貨物列車でした。列車は途中の駅で何時間も止まっては、また進みを繰り返しながら、二日かがりでようやく西高屋に到着しました。今なら一時間もかからない距離です。私たちは死体と二日間も一緒にいたのですが、その時は恐いとか臭いとか何も感じませんでした。祖母は叔父家族と同居しており、私たちはとても温かく接してもらうことができました。

8月15日の玉音放送は、祖母の家で、みんなでラジオの前に座って聞きました。大人たちは「天皇陛下に申し訳ない。」と泣いていました。でも私は、これで自由になれるんだと感じました。それまで学校でも町の中でも、余計なおしゃべりは許されず、いつも緊張を強いられていました。友達と遊ぶこともできませんでした。各隣組には、必ず一人、人々を監視する人がおり、余計なことをしゃべると憲兵に密告されました。私たちにとって、憲兵というのはとても恐ろしい存在でした。召集令状の赤紙を持ってくるのもその隣組の監視役の人でした。

祖母は、末娘、もう一人の娘の家族3人(広島市的場町の自宅で全員死亡)、孫(私の姉)の5人を原爆で亡くしました。毎日仏壇の前に座り、「むごいことよのう。ピカさえなけりゃのう。」と独り言を言いながら手を合せていました。

秋になると母が西高屋にやってきました。私は家の中で何があったのかわかりませんでしたが、祖母がいきなり私にたらいに水を入れるように言いました。私が井戸で水を入れると、母が着ていた着物を祖母がたらいの中に浸けました。すると水が真っ赤に染まりました。後で母は流産したと分かりました。母は、長女に続き胎児も失ったのです。

私と弟たちは翌年の3月まで西高屋にいて、新学期が始まる前に父が迎えに来てくれて広島に戻りました。家は相変わらず傾いたままでした。西高屋からゴザやムシロを持って帰り、それを窓ガラスの代わりに窓枠に打ち付けたり、床に敷いていました。

4月1日に学校が再開されるという連絡があり、私たち児童は指定された尾長天満宮に集まりました。天満宮の階段に、その日集まった子供達が並んで座ったことは覚えています。児童の数は原爆投下前の4分の1になっていました。学校は再開されましたが、校舎は原爆で焼けてなくなっていました。近くの空き地に、4本の細い柱を立て、その上にヘギと呼ばれていたカンナの削りカスのような薄い板を載せただけの建屋での再開となりました。もちろん雨が降ると水浸しになりました。机や椅子、教科書など何もありませんでした。学校に行くと頭から真っ白なDDTをかけられました。勉強をすることもなく、学校では何もすることなく家に帰っていました。私自身、体調もよくなかったので、学校へはあまり行きませんでした。

私は、時間をもてあまし、近所のクリスチャンの方の勧めで、主城教会で、毎日原爆孤児のための下着を縫う作業を手伝うことになりました。使った布はLARA物資で送られてきたキャラコで、来る日も来る日も教会のミシンでパンツを縫ったものです。キャラコがなくなるまで数週間は続いたと思います。LARA物資というのは、第二次大戦後アメリカの慈善家たちによって、戦争で荒廃した国々に送られた援助物資のことです。この時、毎日ミシンを踏む作業をしたことが、後に私を助けることになったのです。

弟の火傷は長く残っていました。西高屋にいる時には、祖母がジャガイモを擦って火傷の上に塗ってくれていました。当初赤かった傷は次第に白っぽくなりましたが、それでも学校で体操服に着替える時など、隠れて着替えていたそうです。

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