岡田 恵美子 Emiko Okada

原爆を作ったのも人間、落としたのも人間です

4. 家庭崩壊

家にいても、以前の家庭的な雰囲気は全くなく、家族でいろんなことを話したり、笑ったり、一緒に食事をしたりということは全くなくなりました。母は相変わらず精神を患ったままで、家族を顧みることはありませんでした。父は、戦前、戦中を通じて軍国主義教育を生徒たちにおこない、お国のために命を捧げることが名誉であると教えていました。当時、男の子は17歳になると召集令状が来ました。しかし15歳以上であれば、自ら志願して兵士になることができたのです。父は自分の教育のために、数人の教え子を志願兵として戦地に送り出したことに罪悪感を持ち、戦後ずっと苦しみ続けました。そしてとうとう学校復帰後一年ほどで教職を辞してしまいました。その後2年ほどは無職でブラブラしていました。

西高屋から戻ってからも、両親は毎日どこかに出かけていました。帰って来ない日もありました。どこに行っているのか私には分かりませんでした。まだ9歳だった私は幼い弟たちの世話をしなければなりませんでした。東練兵場に植わっていた芋や大根やトマトを取ってきたり、よその家のイチジクを盗んできては、日々飢えをしのいでいました。家にはホーローの鍋がたった一つ残っていました。それで、その日手に入れた食べ物を煮炊きし、なんとか3人が飢えをしのいで生きていました。当時は周りの家もみな似たような状況だったので、それが当たり前だと思っていました。両親と一緒にご飯を食べた記憶はありません。2年ほどそのような状態が続きましたが、私が6年生の時、ようやく父が仕事を始めました。機械工具を売る店を始めたのです。

私は、1949年比治山中学校に入学しました。入学して初めてクラスで自己紹介したときに、「尾長小学校から来ました。」と言った途端、クラスの雰囲気が一瞬氷ついたように思いました。当初なぜか分からなかったのですが、徐々に尾長町には、中国人や朝鮮半島出身者が多く住んでいて、広島の他の地域に住んでいる人から差別的に見られていることに気づきました。私が幼いころ、周りの子供達は中国人や朝鮮半島から来た人たちのことを、「チャンコロ」「ブタ」と呼んでいました。私が意味も分からず、同じように呼ぶと、母にこっぴどく叱られたことがありました。母は、人をそのように呼ぶことはいけないことだと私に言い聞かせました。中学に入って初めて私は差別ということを知りました。

父の仕事は当初うまくいっていましたが、私が高校に入るころには、売掛金がなかなか回収できず、借金が膨らんでいきました。家も土地もすべて銀行からの借金の担保になっており、バタンコと呼ばれていた三輪車は、私の名義で購入していました。高校生の私も自転車で集金のためにあちこちまわりました。しかし若い女学生が集金に来たところで、誰一人としてお金を返してくれる人はいませんでした。そして1955年、私が高校3年生の時、父の店は不渡りを出して倒産してしまいました。そして父と母は県外に夜逃げをしてしまったのです。残されたのは1800万円の借金で、すべて高校生の私の肩にかかってきたのです。弟たちは中学校から県外の全寮制の学校に入っていましたので、広島に残されたのは私一人となりました。

母はその後しばらくして、逃亡先で脳溢血で倒れ、病院に運ばれましたが、3時間後に亡くなったそうです。私は連絡をもらってすぐにかけつけましたが、母の死に目には間に合いませんでした。お葬式に出て、荼毘に付された後、お骨を拾おうとすると、骨はハラハラと粉のように崩れました。ところが頭部からはキラキラ光るガラス片がいくつも出てきたのです。

弟たちはその後夜間高校に入り、毎日アルバイトをしながら勉強し、二人共自分の力で大学に入学しました。下の弟は大学二年生の時に結核を患い、退学を余儀なくされました。

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