一軍医の記録

1.見よ! 広島に紅蓮(ぐれん) の火柱が立つ

顔の上に、ふと、まぶしさを感じて目を覚ました。昭和20(1945)年8月6日の朝が明けていた。戸坂(へさか)作業隊長を解任されて今日は新らしい任務のきまる日、と意識した途端(とたん)に室の様子がちがうことに気がついた。たしか、昨夜は病院のX線室に臨時にととのえられた寝台に寝たはずである。妙だと思ってあたりを見まわした私は少し離れた座敷の向うに、こちらに脊を見せて寝ている小さな病人の姿を見てようやく昨夜の記憶をとり戻した。

戸坂村から病院に帰りついたのは夏の日が暮れおちた8時少しすぎだった。院長閣下(かっか) が不在の上、新任の庶務(しょむ)課長も帰宅したあととあって任務終了の申告(しんこく)ができず、院内をうろうろしていた私は週番将校(しょうこう) から妙な役を頼まれた。その夜、広島陸軍病院に泊まる数人の高級将校の接待をしてほしいというのである。東京と大陸(たいりく) との間を往来する高級軍医が食事らしい食事の出なくなった旅館をさけて病院を利用するのがこのところ慣例(かんれい)になっていた。

気疲れのする応待ではあったが久し振りの酒に私自身もかなり酔った。しかし、それでも最後の1人が杯を伏せるのを見届けて寝台に横になったのは夜もかなりふけていた。隣に枕を並べた将校のいびきに悩まされてなかなか寝つけず、うとうとしかけたところを衛兵(えいへい) にゆり起こされた。戸坂村で病人がどうとかいうのを押し問答したまでは覚えている。無理にひき起こされて誰かの自転軍の後に乗せられたが、そのあたりからはっきりしない。揺れる荷台から落ちそうになって前の人の帯をしっかりつかんだ目に、星を砕く太田川(おおたがわ)の水を見た覚えがあった。

昨日まで滞在していた戸坂村の、ここは時々診察によばれた患者の表座敷と気づいて私ははね起きた。時計は8時を少し廻っている。どう急いでも病院(広島陸軍病院) の始業に間に合う時間ではない。床を並べて寝たこの家の主人はとっくに起き出たのだろう。裏で水を汲む音がしている。手早くふとんをたたんで床の間の軍刀(ぐんとう) を腰に吊りながらあらためて病人の脇に膝をついた。発作(ほっさ)はしずまって静かに寝息をたてている。腰の携帯嚢(のう) から注射器をとり出しアルコール消毒をすますと、注射薬のアンプルを切りはじめた。

開け放した座敷から雲1つない8月6日の夏空が眩(まぶ)しく輝きわたっている。と、そのはるか高い彼方を飛行機が1機、銀色に光りながらゆっくり動いていた。(アメリカ側の公式な発表では広島を爆撃(ばくげき)したのは「エノラ・ゲイ」「大芸術家」「ボツクスの車」と名づけられた3機のB29で、始めの2機が編隊を組み、あとの1機が少しおくれて広島に侵入、「エノラ・ゲイ」が弾倉(だんそう) につんだ「ちびっ子」――原子爆弾の愛称――を投下、「ボツクの車」が写真撮影を行った、とある)

B29の機影(きえい)はちょうど、広島の上空へさしかかろうとしていた。いつもの偵察(ていさつ)飛行だろう、とそれ以上気にも留めず、注射器の中の空気を押し出してよく寝ている病人の腕をまさにとろうとした。

その瞬間である。かっ、と、あたりが真白にくらんで焔(ほのお)のあつさが顔と腕をふいた。あっと声を出したのは覚えている。注射器をどうしたかは分らない。両手で目を覆(おお)ってヒラグモのようにその場にはいつくばった。匐(はらば)ったまま、僅かに顔をあげて指の間からあたりの様子をうかがった。一面の火の海、と予想した目に空の青さがとびこむ。嘘のように静かだった。縁先の庭木の葉が微動だにしない。一瞬の閃光(せんこう) 熱風はどこへ去ったのか。今のは夢かと、もう1度、目をこらして広島の空を見渡した。

その時、広島の町並をさえぎる丘の連なりの上に指輪を横たえたような真赤な大きな火の輪が浮んだ。と、その中心に突然、真白な雲の塊りができた。それはまたたく間に大きくなり火の輪を内側からおしひろげてたちまちふくれ上って巨大な火の玉になり、同時に下は広島市を踏みくだく火柱となって立ちはだかった。すると、市をさえぎる山並の陵線に帯のような真黒な雲が現われた。市の巾いっぱいにひろがったその黒雲は、泡をかんでくずれる土用波(どようなみ) に似て、一気に丘の斜面をすべりおりると、森を、林を、田や畑を、見る限りの万象(ばんしょう)を巻きこみながら太田川(おおたがわ)の谷をいっぱいに埋めて戸坂村に向っておしよせ始めた。広島全市の土砂と砂塵(さじん)を一瞬にまくり起こした巨大な爆圧の嵐は閃光と熱線におくれる僅か数秒の差で私の目に異様に巨大な黒い津波の全容を見せたのである。

すぐ目の下の小学校の屋根が朦々(もうもう)とした砂塵のつむじ風に軽々とひきはがされるのを見て、はっ、と腰をおとした時には私の身体がもう空中にすくい上げられていた。雨戸や襖(ふすま)が紙くずのように舞い上り飛び散る。重い大きなわらぶき屋根が天井(てんじょう)もろとも吹きぬかれてポッカリ青空がのぞく、背を丸めて目を閉じた私は二間(ま)つづきの何枚かの畳を飛んで奥の仏壇(ぶつだん)にいやというほど叩きつけられた。もんどり打ったその上に泥をまじえた大屋根が恐ろしい音をたててくずれ落ちた。そこ、ここに痛みを感じたが、たしかめている余裕はなかった。目や鼻や口に押しこまれた泥を夢中でぬぐいながら明るい方へ向って動こうとして病人のいたことを思い出した。胸が早鐘(はやがね) のように鳴る。うす明りの泥をかぶった花模様のふとんの端が目に入った。その端から小さな手首が白くのぞいている。夢中でその手をつかむと力まかせに引きずり出して縁側まで転がり出る。庭先の広場に横たえると、泥まみれの胸に直接、耳をつけた。歯切れのよい鼓動(こどう)が規則正しくひびいてくる。病人は意識がかえってあたりを不安そうに見回したが、怖ろしいのか急に私の両手にしがみついてくる。その手を握りかえしてあらためて広島の空を見た。

見よ。広島に紅蓮(ぐれん) の火柱が立つ。緋色に燃え輝く火柱が無限の高さに貧欲(どんよく)に湧きのぼってゆく。不意に背すじが寒くなって下腹のあたりにいい知れない恐怖がにじり上ってきた。「私の今、みているものは何なのか」28歳の人生経験にない未知の世界がそこにある。広島全市を火柱の下に踏み敷いて壮大にそびえ立つ「きの子雲」。幼いころ、目近かで見た浅間山(あさまやま) 爆発の噴煙(ふんえん)も遠く及ばない異様なその巨大さに、私は知らず知らず大地にひざまづいていた。

不気味な風が木々の葉をさわがし始めた。村のあちこちから互いに呼びかわす人の声が聞える。一面に霧とまがう砂塵が立ちこめていた。かすんだ視界の上に照り輝く8月の空があった。その透明な明るさを遮二無二(しゃにむに)かき消そうとするかのように、猛然と立上った巨人の雲は五彩の色に輝きながらどこまでもふくれ上っていった。
「すぐ病院に帰らねばならない」私の意識の中にはそのことしかなかった。裏の畑からおろおろしながらこの家の主人が現われたが、巨大な雲の柱を見てその場に坐りこんだ。
「孫は大丈夫、泥だらけだが心配ない。すぐ病院へ行くから自転車を貸してほしい」
主人の腕に子どもを抱きとらせて、私はもう自転車を走らせていた。太田川沿いの街道に出るまでの村内の道で畔道(あぜみち))を走る何人かの姿を見たが声をかけている余裕はなかった。「きの子雲」につづく乾いた白い道を一散にペダルを踏んだ。人はおろか犬1匹の姿もなかった。行先をさえぎる巨大な雲の異様な姿が無性におそろしかった。あの火の下に、あの雲の下に何が起っているのだろう。広島陸軍病院軍医として、私にはその下で果すべき重い任務がある。そんな自覚だけがともすればひるみ勝ちになる足を前へ前へと押しやっていた。

広島の市街まで、ここがちょうど半ばあたりという石地蔵(じぞう)から山裾が少し後に下がって小さな畑が続く。道はそこからかなり長い直線の下り坂になって再び川にせり出す山の端を急角度に左へ曲がる。その曲り角めがけて一湾千里にかけ下った私は突然、岩角から急に現われた人影を見て急ブレーキをかけた。自転車がきしんで跳ねて、踊って、草むらに投げ出された。痛みをこらえてはね起きた私は、道路の真中に立つその姿を見て思わず息をのんだ。それは、「人間」ではなかった。それは、ゆれ動きながら私に向って少しずつ動いてくる。人間の形はしていたが全体が真黒で裸だった。裸の胸から腰から無数のボロ切れがたれ下がり、胸の前に捧げるようにつき出した両の手先から黒い水がしたたり落ちている。その顔は、ああ、それは顔なのか。異様に大きな頭、ふくれ上った両の目、顔半分にまで腫(は)れ上った上下の唇、焼けただれた頭に一筋の毛髪もない。私は息をのんで後ずさりした。ぼろと見たのは人間の生皮、したたり落ちる黒い水は血液だった。男とも女とも、兵隊とも一般人とも見分けるすべのない焼け焦げた人間の肉塊が引き剥(は)がれた生皮をぶらさげてそこにあった。まだ少しは目が見えるのか私に向ってうめき声をあげながら両手をさし出して、よろけ、もつれて2〜3歩足をいそがせたが、それが最後の力だったのであろう。その場にばったり倒れてしまった。馳けよって私は脈をとろうとした。しかし、手をふれる皮膚(ひふ)らしいところはその肉塊の腕にはどこにも残っていなかった。呆然(ぼうぜん)と立ちすくむ私の前でその人は2〜3度ひくひくっと痙攣(けいれん)して動かなくなってしまった。誰か人手をと思ってあたりを見まわしたが、間に合う距離に人家もない。とにかく広島へいそがねば、と自転車をたて直して進みかけた私の足はその場に釘づけになったまま、動かなかった。焼けて、焦げて、ただれて、生皮の剥がれた血のしたたる群像が道いっぱいにひしめいて、うごめきながら、行手をふさいでいたのである。立っている人、より添っている人、いざる人、匐(は)う人、どの姿にも人間を意識させる何1つのしるしはなかった。

どうすればよいか、私には分らなかった。とりすがられても治療の道具、薬品1つ持ち合わせていない。といって、いそぐからと悲惨なこの重傷の人たちを押し分けて通る勇気はさらになかった。恐らく広島までの道は行けば行くほど負傷者で埋まっているにちがいない。私は咄嗟(とっさ)に自転車を道ばたの草むらに投げすてると、いきなり、太田川の流れの中に飛びこんだ。

岸に生い茂る夏草の下を腰まで水につかって息を切らせながら一目散に川を下った。水を求めて街道から堤の斜面に転がり落ち、灌木(かんぼく)にからまって息の絶えた死骸をいくつ見たことか。やがて真黒な煙が風を呼んで水面に渦を巻き始める。行く手はすでに焔でも舞うのか、熱風が川面を吹いて息苦しくさえなる。

急に川底の岩が砂に変り、あたりの気配で私は長寿園(ちょうじゅえん) まで来たことを知った。7本に分れる太田川が最初に左へ分れる猿猴川(えんこうがわ)に入りこんだらしい。真黒な熱風が前後左右を渦を巻いて襲いかかってくる。その度に私は頭から水にもぐり、息をつめては、また顔をあげる。真夏の明るい空はどこにもなく、横なぐりの烈風が水しぶきをあげて頬を叩いた。

突然、煙の中に真黒な橋を見た。特徴のあるその形で工兵橋(こうへいばし) と知る。もし私が戸坂街道を自転車で来たとしたらこの橋を対岸へ渡って広島市へ入るのである。右に向きを変えて流れを横切り始めた時、急に風が変って今まであたりを閉ざしていた真黒な煙が吸いこまれるように下流に消えると、不意に青空があらわれてあたりが真昼の光に輝きわたった。

広々とした長寿園の汀は見る限り焼けただれた肉塊でぎっしり埋まっている。倒れたままの姿はすでに息絶えた死体なのだろうか。折り重って倒れ伏すその上を乗りこえて後から後から水を飲みに這(は)い出るその数は数えようもなかった。対岸にわたる吊橋(つりばし) は吊り手のあたりにちりちりと焔をちりばめて黒煙をあげている。その火の中を虫が這うように赤くやけた肉体がうごめいている。対岸の工兵隊の兵舎が今、正に爆発の真最中だった。火焔をつつむ黒煙が風を巻き、時々、大音響とともに爆発する火勢が花火となってその煙を赤く染める。燃え上る火に追われて人々が対岸から次々と川の中にこぼれ落ちるように飛びこんでいた。市内に入るどころか、私はそこから1歩も動けなかった。腰から下を水につけて流れの中に呆然と立つ私のまわりを顔を失った裸の群がちょうど、幽霊(ゆうれい)のように両手を前につき出して無言で過ぎて通る。人間らしい言葉は1つもなかった。

息の絶えた死体が、そのいくつかは水面に浮いて、そのいくつかは水中を漂(ただよ)って私の身体につき当り、向きを変えて川下へ流れ去る。そんな中に、いたいけな小さな姿をいくつも見た。そのたびに泣くまいと奥歯をかんで空を見上げた。さかまく黒煙のその上に嘘のように明るく輝く夏空に傘を開ききった壮大な「きの子雲」が五色に輝いて私を見下ろしていた。

いきなり後から名を呼ばれた。呼び捨てられて上官(じょうかん) と知ったが目の前に両脇を支えられて立つ姿を、最近着任したばかりの庶務課長鈴木中佐(ちゅうさ) と知るまでかなりの時間がかかった。軍刀を杖にして辛うじて立った上半身は焼け焦げた肉塊だった。
「残念だ。広島陸軍病院は全滅した。院長閣下の留守にこんなことになって申しわけない・・・わしは・・・」
いいたかった言葉はそんなことだったのだろうか。息切れが激しく殆んど言葉にならない。手を貸して水のない砂地までいざなったが、あとは何か分らぬことを口走りながらくずれるようにうずくまってしまった。(広島陸軍病院の生存被爆者、永田正雄衛生中尉(ちゅうい) の手記「広島市原爆戦災誌」第一巻、第一編総説――によると午前9時前、工兵橋北詰附近で永田中尉は焼けただれた庶務課長に声をかけられ、命令を口達(こうたつ) されている。私が同じ場所に到着したのは少なくとも10時半から11時ごろと思われるので庶務課長はその間、長寿園の汀に横たわっていたらしい。永田中尉の手記では工兵橋で不帰(ふき)の客となったとあるが、庶務課長はその後戸坂分院までゆかれ、十数日後、息をひきとられた)

どのくらいその場に立っていたのか記憶はさだかではない。見る者すべてが焼けただれたむごたらしい姿なのに比べて、たった1人、まともな格好をしている自分の方が異常のような気がしてきて、狂うのではないかと非常な恐怖におそわれたことを覚えている。

ふと気がつくと10人くらいの兵隊を乗せた和船(わせん) が川を下ってきた。将校が水中へ飛び下りて近づいてくる。戸坂村の1つ上流の隣村で私と同様、穴掘り工事をやっていた他部隊の顔見知りの将校だった。私が出てきた戸坂村にはもう、数え切れないくらい負傷者が入りこんでいるから、すぐひき返して救援にあたれ、という。広島陸軍病院には責任がある。無断で離れるわけにはゆかぬ、と抵抗する私に、「この火の中へ入れると思うか、治療は軍医にしかできないことだ。病院へは自分たちが行って伝えるから」との理に叶った説得に私はようやく引き返す決心をした。握手をかわした若い将校が川の水を頭からかぶって兵とともに火の中へ下ってゆくのを見送るとそのまま戸坂村へ向って川をのぼり始めた。

水を分けて川をのぼっての戸坂村までの距離は途方もなく長かった。時計は水に濡れてとっくに用をなさなくなっている。あえぎながらようやく見覚えのある堤防の階段をのぼって街道に立った私は思わずそこへ坐りこんでしまった。足が立たぬほど疲れもはげしかったが、眼前に見る村の様子に正直、度胆(どぎも)をぬかれたのである。

川沿いに北へ走る街道と、広島市から中山峠(なかやまとうげ)を越えてくる街道が交叉するT字路を中心に、道路といわず、学校の校庭といわず、乾いた土の上は見る限り、足の踏み場もない負傷者の群だった。屋根をとばされて壊れた校舎の残骸が校庭に散乱する小学校も無惨だったが、それにも増して目を奪うのは大地に折り重った肉塊の数である。道に倒れ伏した死体を乗りこえて引きも切らず、後から後から血みどろの集団が入りこんでゆく。死臭と血の匂いと肉のやけた異様な臭気があたりに満ちていた。

校庭の隅に臨時につくられた治療所では藤本大尉(たいい) 以下の戸坂分院の面々と安佐(あさ)の飯室(いむろ)分院からかけつけた応援の医療班が机を並べてすでに応急処置を始めていた。負傷者は3列に並んで順番を待っていたが待ち切れずに倒れて動かなくなる者もあった。
「おーっ、帰ったな。どうだった」
婦人の全身につき刺さったガラス片をぬきとりながら藤本分院長が大声を出す。
「工兵橋から先は火で入れませんでした。すぐ手伝います」
「それより役場へ行って飯のことを指示してくれ。今夜はどうせ徹夜になる」
学校に隣接した役場には村長以下、村の幹部が顔を集めて相談している最中だった。立場上、私が指揮をする形になった。
「なんとかしてつかあさい。どもなりまへんで」
本当に困ったという顔で村長が窓の外を指さした。田んぼのあぜ道に村の人たちがあちらに1並び、こちらに1列と、まるで、電線にとまる雀のように腕を組んで立ちつくしている。村中の家という家に血だらけの負傷者がぞろぞろ上りこんで座敷に倒れ伏し、恐ろしさに逃げ出した家人が途方(とほう)にくれてあぜ道に並んでいたのである。

村中の人たちを集めること。村が保管している軍の疎開米(そかいまい)を出して炊(た)き出しの態勢をつくること。あるだけの大豆油とボロ切れを集めてヤケドの治療班をつくること。急いで焼場(やきば) をつくること。手短かに指示をする私の言葉に「このあたりじゃ土葬(どそう)ばかりで焼いたこたあないのう」と不服そうな声が出る。「埋めるというのなら埋めるがいい。ざっと見ただけでもう200や300じゃきかない。村中の田んぼを全部、掘りますか」といわれて納得し、学校裏の村有林に臨時の火葬場をつくることがきめられた。

村民の大部分は年より夫婦と小学校の生徒、それに赤ん坊だった。屈強(くっきょう)な若者はすべて戦場に出かけ、働き盛りは男も女も早朝から広島市内へ動員されていた。それでも、愛国婦人会のたすきをかけた婦人たちが炊き出しの準備に散ってゆく。男たちの何人かが作業隊の兵隊をたすけて死体の整理を始めた。2本の青竹に荒縄を編んだにわかづくりの担架(たんか)にのせて怖ろしい形相(ぎょうそう)をした死体を何十、何百と運んだ。それは人間の遺体からはほど遠い黒焦げの肉の塊にすぎなかった。感傷や涙の入る余地はここにはなかった。1人でも半人でもまだ息のあるものをなんとか人間にかえす仕事が必要だった。そして、被爆者はなお、ひきも切らず戸坂村を目指して「きの子雲」の下から避難をつづけていたのである。

婦人たちの手で炊き上げられた飯が手早くむすびに握られる。しかし、それが失敗とわかってむすびは再度、ゆるい粥(かゆ)に煮かえされた。手を焼かれ、顔を焼かれた負傷者にはむすびを口に運ぶことも噛むこともできなかった。粥をいれたバケツを提げて、倒れている負傷者の口にしゃくしで粥を流しこむのは小学生の役だった。「いいか、死んだもんにはやらんでもええだぞ」そんなことを念を押す年寄りもいたが、いわれるまでもなく、大人でも正視することのできない怖ろしい死体には子どもたちは近よろうともしなかった。

校庭や道路にところかまわずころがっていた負傷者が少しは整理されてムシロの上へ横たえられた。しかし、心づくしのそのムシロの上で多くのものが死体にかわり、青竹の担架で運び出されて行く。その後をすぐ新しい負傷者が埋めた。

ほとんどがヤケドに外傷を合併(がっぺい)していた。衛生兵と婦人会の何人かが油をいれたバケツを片手にボロ切れに油をひたして、横たわっている患者のヤケドにぬりつけて歩いた。誰の智恵なのか大きな木の葉をぬらして創面(そうめん)を覆う者もいた。

私も加わって4人の軍医は応急処置に没頭(ぼっとう)した。数日前に要員だけが着任した戸坂分院には医療器械も薬品も一部しか届いていなかった。昼前、可部(かべ)の倉庫からトラックで運ばれた医療材料ももう底をついていた。出征(しゅっせい) している村の開業医の家族の好意で提供された小外科(しょうげか) の器械が、大変役にたった。使える限りの資材が集められ、止血、縫合(ほうごう)、ガラス片の除去、創傷(そうしょう)治療、時には緊急の関節離断(りだん)までが行われた。私も何人かの裂傷を縫い、何人かの頭や顔や腹からガラス片をぬき取った。

火のついたように泣き叫ぶ4〜5歳の男の子がいた。抱えられて連れてこられたその子はどこにもヤケドがなかった。丸裸の腹に大きなガラス片が突き刺さり、傷口からアジサイの花のように臓物(ぞうもつ)がとび出していた。泥まみれの組織の中に腸管(ちょうかん)のないことをたしかめてその根元を縛り、切断した。泣く声もかれて意識を失った男の子を村人の1人が自分の家へ引き取っていった。

倒れたコンクリートの塀の下に腕を取られ、危いところを助け出されて逃げてきた老婆がいた。腕は肘(ひじ)の下で砕(くだ)け皮膚(ひふ)だけでぶらさがってる状態。手先はすでに変色していて切断する以外に救う道がなかった。戸板にしばりつけてすぐ手術が行われた。ようやく左腕が切り離される。うめき切れずに昏倒(こんとう)した老婆のその腕を受取った娘が意外の重さに持ち切れずその場に落とした。血の滴(したた)る腕が戸板の縁をはねて思わぬ遠くまで生きもののように転がる。無気味に白いその指がようやく陽の傾いた広島の空を指さして止った。

上半身を焼き焦がした若い娘がいた。一糸も身にまとっていなかった。腹から下は全く無傷で泥にまみれていたが、その肌の白さが気味の悪いほど人の目を惹(ひ)いた。村の婦人の誰かが見かねて布をその腰に巻いた。娘はすでに狂っていた。むごたらしく焼けたその顔をひきつらせて何度巻きつけてもその布をはぎ取って引きさき、何か分らぬことを口走りながら負傷者と死体のいりまじった校庭を歩きまわった。時には負傷者につまづき、死体を踏んで倒れた。そのたびに若い女性の白い太腿(ふともも)が異様な生き物のように人々をおびやかした。たまりかねて誰かが抱きとめようとしてもつれて倒れた。女は目の前の誰とも分らぬ死体にとりすがって激しく泣き始めた。

陽が西に落ちて、形をくずした「きの子雲」の巨大な姿が妖(あや)しく頭上を覆っていた。私は休む間もなく治療をつづけていた。顔から胸にかけて激しく焼けた若い娘の胸にくいいった大きなガラス片を抜きとろうとしていた。とがった細い切っ先(きっさき)を先にして皮下にもぐりこんだ不安定なガラス板を小さな傷口から抜き出すにはかなり慎重な手技(しゅぎ)が必要だった。

すぐそばにさきほどから赤ん坊を負ぶった若い母親が今にも私につかみかからんばかりにしながら泣き口説(くど)いていた。髪も顔も胸まで焼けて凄惨(せいさん)な容貌(ようぼう)をしていた。繰りかえし聞かされて覚えてしまった繰り言である。
「あっという間に火に包まれたわが家の中で3人の子どもが焼け死ぬのをこの目で見ながら、1人だけ残ったこの子を背負って逃げて来た。背中の子はいわば3人の身代り。今すぐ、この子の命を助けてくれろ」
というのである。負われた子は誕生前であろう。太腿の後を大きく切り裂かれて、すでに冷くなった屍(しかばね)にすぎなかった。何度言い聞かせても理解のできる状態ではない。
私はコッヘルの先にようやくくわえたガラス片を折らないように全神経を指先にあつめて、まさに、引き抜こうとした、その時、押えられていた腕を振りほどいた母親がわっと私にすがりついた。ガラスは砕けて破片は深く乳房の奥にくいいった。一瞬、まわりの人が息をのんだ。
「助けてあげる、さ、おろすんだ」
私は空に向かって手を合わせて拝む母親の腕をつかむと固く結んだ荒縄を切って子どもを抱きとった。冷たいその皮膚はどこも焦げていなかった。切りさかれた大きな傷口に沃度(ようど)チンキをたっぷりつけると看護婦が有りあわせの布でていねいに縛りあげた。
「さっ、今夜は起こすんじゃないよ。向うへ行って休むんだ。明日、乳がよく出るように」
母親はうれしそうに私に向って手を合わせると血だらけの胸にわが子を抱いてどこともなく去って行った。まわりの者がこらえ切れずにわっと泣いた。人間の声が、言葉が初めて通い合った思いがした。私の両眼からも涙があふれそうになった。私は歯を喰いしばって泣くまいとした。泣けばもう一瞬もそこに立ちつづける勇気が消えてしまいそうに思えた。

全村をあげて野戦(やせん)病院と化した戸坂村にやがて夜が訪れた。星明りの空を覆う「きの子雲」の奇怪な姿は昼間にも増して不気味で威圧的だった。燃えつづける広島市の空が赤くやけていた。

うめく声、叫ぶ声、すすり泣く声、どなる声、さまざまな人間の赤裸々な声がいりまじる校庭を、心ない風が裏山の木々を鳴らしてわたってゆく。太田川の水音が、いつに変らぬ時を数えて南へはしっていた。

蝋燭(ろうそく)の灯を頼りに治療は夜を徹してつづけられていた。夜になっても2つの街道から流れこむ負傷者の数はひきも切らなかった。兵隊と村民の運ぶ担架は休む暇なく遠い山裾の林までの道を往復していたが、いくら運んでもあとから、あとから犠牲者の数は絶えなかった。

軍曹(ぐんそう)が目をくぼませて報告にくる。300体近くを運んだが道路に横たわる遺体はなお数え切れない。担架隊はもう足が動かないから後は明日にしてよいかという。みんな疲れて交替する者もなかった。うなずいた私に敬礼して軍曹が背をかえした時、
敵機(てっき) だっ」
「また、来たぞ」
「火を消せっ」
大声と同時に誰かが灯を吹き消した。耳馴れたB29の爆音が遠い空の果てからひびいてくる。校内がしーんと静まりかえった。誰の胸にも氷のように冷たい恐怖がにじり寄っていた。今にも、あの閃光がひかりはしないか。今朝の8時15分の身の気のよだつ一瞬がみんなの心をとらえていた。爆音は、息をひそめた人々の恐怖をひきのばすように金属音を遠く近く波打たせながら次第にうすれて遠ざかって行った。
「畜生っ。なんてことをしやがる。女、子どもをこんなめに会わせやがって」
誰かの悲痛な声が闇をつらぬいた。
「おかあちゃーん」
子どもの金切声(かなきりごえ)が胸をつきさす。こらえ切れない号泣(ごうきゅう)が小学校の廃虚(はいきょ)の夜をゆり動かした。

私は黙ってその場を離れると誰もいない一隅を求めて足を運んだ。濡らしたまま胸のかくしにいれた煙草をぬき出してマッチをすった。黄色い火の輪は私の頬を流れた涙をうつしたはずだった。
「誰か、誰かきてくれーっ」
けたたましい声がした。声は表門から聞える。闇をすかして目をやるとうずくまった黒い影を数人がかこんでいる。振り乱した髪の長さで女と知れた。
「大出血でありますっ。すぐにっ」
負傷者の間を縫うようにしてかけつけると夜目にも蒼白(そうはく)な婦人の顔があった。左手に乳のみ児を抱きかかえ、はだけた胸を押さえる右手のあいだから時を切って糸の様に血が噴出(ふんしゅつ)していた。
「しっかり押さえてろっ」
「手をゆるめるなっ」
みんなのはげましの声に応ずるように救急処置班がかけつける。婦人は意外に元気だった。
「私は医者の妻です。止血していただければお手伝いさせていただきます。多少の心得はありますから」
「どちらから」
「西白島(にしはくしま)です」
「御主人は」
「わかりません。息があればどこかでお役に立っているはずです」
消毒の終ったコッヘルを手早く傷口にいれる。蝋燭(ろうそく)の灯の下で手荒く針をかける。血にすべる指先に必死の意志を集めて私は生あたたかい胸の肉の中でしっかりと糸を結んだ。何度かうめき声をもらして耐えた婦人は縫い終って立ち上がった私の足元で静かに子どもを抱きよせていた。

肥田(ひだ)舜太郎(当時・軍医) 記





ここに掲載する文章の著作権は戸坂公民館にあります。

Some Rights Reserved


Hiroshima Speaks Out

URL : h-s-o.jp

お問い合わせ : コンタクトフォーム