一軍医の記録

2.見よ!一望の焼け野原

昭和20(1945)年8月7日も広島の朝は快晴に明けた。ひきも切らず村にたどり着く負傷者の数が小さな村を埋めつくしていた。身内(みうち)や縁者をたずねる遠来(えんらい)の人たちが繰りこんで、焼け焦げた傷者と死体に満ち満ちた広島陸軍病院戸坂(へさか)分院は足の踏み場もないほどごったがえしていた。

早朝、山陰の大田(おおた)分院から数名の兵員が偵察(ていさつ)をかねて到着した。そして、昨日、殺倒(さっとう)する負傷者を収容するため急拠(きゅうきょ)、戸坂駅(当時は信号所)の裏山の林間に建てられた林間病棟の支援にでかけていった。

夜のしらむのを合図に青竹を縄で編んだ担架(たんか)班が活動を始めた。山陰(やまかげ)の雑木林(ぞうきばやし)に設けられた臨時の火葬場(かそうじょう)に火がいれられたが、昨日1日ですでに100体は焼いたとか。村中のたき木の貯(たくわ)えが底をつき、一部はやむなく小指だけを焼いて遺体は村有林の谷間に埋めたと聞いている。やがて、朝もやにまじって立ちのぼるうす煙が朝日に染められてうす桃色に輝き始めた。

誰も一睡もしていなかった。たき出しの握り飯を口に運ぶ指先に血の匂いがしても少しも気にならなくなっていた。咽喉につかえる玄米(げんまい)を水と一緒に流しこみながら、長蛇(ちょうだ)の列をつくる負傷兵の応急処置に没頭(ぼっとう)していた。

10時ごろ方面軍司令部からの緊急召集命令がどこからともなく伝えられてきた。折よく山口県の分院から3人の軍医をふくむ数十名の救援隊が到着、人手が一挙に増えたのを機会に、市内の偵察(ていさつ)をかねて私が連絡に行くことになった。

昨日、夢中で走った太田川(おおたがわ)沿いの街道を私は黙々と歩いた。「きの子雲」はすでに原型をとどめぬまでに流れくずれ、平凡なうす雲となって広島の空にたなびいている。いたるところで黒焦げの死体が道をふさいでいた。物をいう力もない火ぶくれした肉塊が乾いた目を動かして私の姿を追う。唇が動くのは「水を」とうめくのであろう。街道の右下を太田川の水が陽をはねてとうとうと南へ流れ下っていた。長寿園(ちょうじゅえん)に入る手前で工兵隊(こうへいたい)射撃場(しゃげきじょう)を横切る。累々(るいるい)と横たわる死骸の間を匐(は)うように動く焼けた肉塊があった。力なく差しのべる手を握りながら水筒の水を蓋(ふた)にとって唇にたらした。何がいいたいのか必死に見つめてくる目の意外に澄んだ色が悲しかった。

やがて工兵橋につく。焼け焦げたまま落ちもせぬ吊橋(つりばし)にいくつかの真黒な裸体がまるで生きてでもいるようにとりついている。跡かたもなく焼け落ちた工兵隊の敷地一面にまだ、もうもうと白煙がたち、赤くいこった炭火の山をかすかな風が小さな焔を呼び起こして吹いて通る。道はここから山陽線(さんようせん)路の下をくぐって市内に入るのである。私は土手に登って枕木(まくらぎ)の燃えた線路の上に立った。

見よ、一望の焼け野原。目を遮(さえぎ)る幾つかのビルの残骸がわずかに残るその向うに、嘘のように白く光る真昼の海があった。目指す広島城天守閣(てんしゅかく) はすでになく、街はただ、茫々(ぼうぼう)と焼けつくした瓦礫(がれき)の原と化していた。

あちこちに色とりどりのうす煙が立ちのぼっている。その間を人影が列をつくって動いていた。残留(ざんりゅう)放射能がこの人たちの多くの命を奪うことになろうなど、この時はまだ誰にも分っていなかった。

軍司令部の位置を教える石垣に向って私は土手をかけ下りた。密集した家々が焼けくずれて瓦礫(がれき)と灰と石塊が道を覆(おお)いつくしている。切れ落ちた何条もの電線がうねり続いて道のあった位置を教えていた。

広島城跡への見当をつけると電線を道しるべに歩き始めた。踏み出すと灰はまだ熱く、そこここに火の色を残している。長靴(ちょうか)に焦げた肉と骨があった。時にはうめく声さえ聞いた気がする。

やがて、第二陸軍病院の焼け跡に出る。わずか8ケ月にすぎなかったが数々の思い出が胸をかけめぐった。親しんだ人たちの何人が無事にここから出られたことか。涙がとめどもなくあふれて乾いた頬を流れた。緑の芝生が憎いほど鮮やかな本部の前庭に3つの死体を見た。誰とも見分けるすべのない炭の塊(かたま)りにすぎなかった。炊事場のあたりに水びたしになった2頭の馬の死体があった。あの火の中でどのような死にざまをしたのか、焼けのこった一部の皮膚の濡(ぬ)れて黒光りする異様なみずみずしさが目を射る。破れた水道管からきれいな水が音をたてて流れ出していた。そこから向うは一目でそれとわかる病棟の焼け跡に鉄の寝台が乱れながらも整然と並んでいる。爆圧の強さを教えるのか、脚が全部、一せいに飴のように折れ曲っている。動かすのに骨の折れるあの重く頑丈な鉄の骨組を瞬間に真上からおしつぶすとは一体、どのような力だったのだろう。飛び出した2つの目玉を胸の前にぶらさげた死体。肛門(こうもん)からはらわたがはみ出た死体。昨日からいくつか見たそんな死体の物語る意味が今になって改めて胸にこたえる思いがした。火を見る前に恐らく全員が即死してしまったのであろう。1つ1つの寝台の上に灰をかぶった傷病兵の骨が1体ずつ、まるで嘘のように並んで横たわっていた。

芝生の土手を越えて地続きの二部隊営庭に出る。朝の間(ま)げいこ (体操)の時間に直撃されたにちがいない。一定の間隔を保って整然とならんだ無数の死体が転がっていた。一様に顔の半面と左腕が焼けている。

足をはやめて堀端に出た。苔むした石垣をうつす水面に蓮の葉が昨日に変らぬ古城のたたずまいを見せていたが、枝振りを誇った老木が幹を裂かれて半身を水に落とした姿が無惨だった。そこここに腹を見せて浮いた魚を見たが水中を動く小魚の背が一様に白くやけていたのが印象的だった。日露戦役(にちろせんえき) 大本営(だいほんえい)跡の史跡となっていた黒塗りの楼門(ろうもん)は焼け落ちて赤い炭火の山がところどころまだ小さな焔をあげていた。営兵の姿はもちろんない。城内に入ると築山(つきやま)の芝生の間を縫って道はいくつにも分れる。いつもなら目標になる天守閣がないままにうろ覚えの小道を奥にすすむうち小さな池のほとりに出た。と、大きな樹の根元に1人の人間の姿を見た。下ばき1枚の全裸の肌が異様に白い。「外人捕虜(ほりょ) 」咄瑳(とっさ)にそう思った。射落とされた敵機(てっき) の乗員なのであろう。幹の根元に後手(うしろで)にしばられて投出した脚がやたらに長い。足音に気づいてこちらを向いた顔はまだ幼い童顔(どうがん)だった。物怖じもせず身体をいざらせて盛んに何かを訴える。その声の意味は分らなかったが「水」を求めているらしいと知った。水筒の水はすでにない。反射的に私は池の水を見た。よどんだ水面が宙天(ちゅうてん)の陽をうつして眩(まぶ)しく光っている。東京の、大阪の、日本のすべての都市を焼いた敵兵の1人。ちらっとそんな考えが浮んだが迷いは一瞬だった。無言で近寄ると後に立って両手を縛った麻縄を軍刀鯉口(こいくち) で断ち切った。自由にされた意味をはかりかねたのか、腰をついたまま後ずさりしてじっと私を見つめてくる。私は黙って池の水を指すといそいで立ち去ろうとした。わめくように何かよびかけてくる。
「ワッチャネイム」
何度かくりかえす言葉のひびきで名を聞かれたと知った。じっと見つめてくる目が涼しい。迷ったが、
「ドクター・ヒダ」
と答えて背をかえした。広島では戦争を続ける意志は完全に消滅していたが「戦争」はまだ続いていた。捕虜を無断で放つことの意味が私の胸を早鐘(はやがね)のように打ちつづけた。

うず高くつみ上った天守閣の残骸(ざんがい)を背に方面軍(ほうめんぐん) 司令部があった。司令部といっても天幕一張りあるわけではない。全身を包帯(ほうたい)に包んで目だけの高級将校(しょうこう) が石垣に立てかけた担架(たんか)に身をもたせていた。そのまわりを血を滲(にじ)ませた包帯姿の将校らしい数人がとりかこんでうずくまっている。1人が奉持(ほうじ) する房だけになった軍旗が辛じてその1団の権威を誇示(こじ)していた。その前に整然と並んで腰をおろしている集団の中の1人が立って報告していた。立っているのもやっとらしいヤケド姿だったが声だけは大きく城の広場にひびいて通る。
「西部第○○部隊、総員一千何百何十・・・、現在員4名、死者多数なるも詳細不明」。続いてその隣が立つ、「西部第○○部隊、総員一干何百何十・・・、現在員6名、死者多数、状況は不明」
どこまで聞いても現在員の数が10名を越える報告はない。広島陸軍は文字通り消減していた。

そこにいるすべての者が傷つき、焼けただれてすさまじい形相(ぎょうそう)をしている中で、汗と埃によごれているとはいえ一通り整った身なりの私の存在は異様にさえ見えたにちがいない。最後に報告の番がまわった私に複雑な視線が集中する。「どこにおった」と問う声で目だけの包帯姿は元大本営報道部長、松村大佐と知った。第二総軍創設準傭の段階で、軍医部の人選(じんせん)で何度か呼ばれた覚えがある。私は手短かに戸坂分院の状況を報告した。入院患者をふくめて第一、第二の両陸軍病院の総員は1600名は越えていたと記憶している。その中で確実に生き残ったのは大阪へ出張中の元吉院長をいれても私と戸坂分院の軍医3名以下、下士官、兵、看護婦、計30名前後、あとは一切、消息不明だった。

捕虜の縄を切った後(うしろ)めたさがとがめて、治療の多忙を口実に私は早々に城を離れた。軍司令部への報告という任務は一応終ったので、いよいよ、基町(もとまち) の第一陸軍病院の焼跡に向う。5日の夜、出張中で会えなかった近藤少尉(しょうい)がどこか遠くにいてくれたらと秘かに願ったのだが、昨夜おそく戸坂にたどりついた病院の下士官(かしかん) の言葉で、「爆発の直後、火の出始めた病理の前庭で上半身を焼かれた近藤少尉が倒れているのを見た」と聞かされた。多数の中の1人だったし、無我夢中だったのでたしかとはいえないが動いているようには見えなかったともいう。

どこかで生きていてほしい、という気持に変りはなかったが、一際(きわ)、すさまじい病院の焼け跡の惨状がそんな願いを断ち切ってしまった。正門と思われるあたりに数個の死体を見た。恐らく衛兵だったのであろう。本館の入口に明らかに女性と分る焼死体があった。見渡したが、私が教育隊に転出したあと、新しくつくられたばかりなので建物の配置にあまり記憶がない。いろいろと推定してこの辺が病理試験室のあったところと訪ね歩いたが、どこも累々と散在する骨また骨、ざっと見ても500や600ではなかった。異様な臭気のただよう瓦礫の原に立って一心に涙をこらえる私の胸に、戸坂村の宿舎のかまどの火にくべた手紙の文字と酒を汲んで語り明かしたあの夜の近藤少尉の言葉が生き生きとよみがえっていた。

「戦争という不合理の源泉に目を閉ざして、派生(はせい)する末梢(まっしょう)の不合理にどう憤(いきどお)っても『虚(むな)しさ』だけがつみ重なるだけ」との痛烈な指摘(してき)はまだ生々しく胸につきささっている。「勇気をふるって戦争を終らせる努力をすべき時」と、みんなが心のなかで考えながら、口が裂(さ)けてもいえなかったその言葉を何故、私を選んで書き送ったのか。せんじつめて、一体何を私に伝えたかったのか。はっきりさせなければならない大事な問題がそこであった。しかし今は、腰をすえて物を考える時ではない。心ばかりの手向(たむ)けの合掌(がっしょう)をして足を返した。

どこまで歩いても瓦礫と死体の広島の街を私は真直ぐ駅に向った。爆発のちょうど、その時刻に故郷の近くの病院へ転送がきまった何人かの負傷兵が広島駅にいたはずだった。その中に癩(らい)病棟の患者がいた。最初の週番勤務の夜、伝染病棟の更に奥に厳重に隔離(かくり)された癩病棟があり、そこで息をしのばせてひっそり生きている癩患者のきびしい生き様に打たれて私は何ケ月か彼等の担当をかって出た。別に何をしたという訳もない。視カの落ちた彼らのために小説などを夜、声を出して読んで聞かせる程度のことがどんなにかその人たちの明日への意欲をかきたてたのである。目をかけたその1人1人の顔を思い浮べながら炎天の市電の道を一散に歩いた。軌道(きどう)をはずれた電車が焼けて骨だけになった車体の中に立ったまま焦げた幾つもの黒い死体を見た。

駅にはさすがに人の姿が多かった。身内の安否をたずねる人々が鉄路を歩いて続々と集まってきている。醜(みにく)く折れ曲った鉄傘(てっさん)の下で幹線鉄道を通す作業がもう始まっていた。広場からはさすがに死体はとり片づけられて焼けただれた駅舎の龍骨(りゅうこつ)のかげで遺体をやく煙が特有の匂いをただよわせていた。

試みにあたりの人に話しかけてみたがいずれも遠くからかけつけた者ばかりで、あの瞬間の駅の様子を知る人がいるはずもなかった。私は足元の土を一つまみ指先にとって掌にのせた。知人をしのぶ砂粒に焼けた広島の匂いがしていた。

この日、太田(おおた)分院から准尉(じゅんい)以下6人、山口県の高水(たかみず)分院から軍医3人をふくむ40人、下松(くだまつ)の花岡分院から分隊長の軍医中佐を先頭に42人が戸坂に到着、戸坂分院の陣容(じんよう)は一挙(いっきょ)にふくれ上った。

戸坂村に集った負傷者の容態に得体の知れない急変が起り始めたのは被爆後、5〜6日もたったころのように思える。異常は当然、それ以前から起っていたのであろうが、重度のヤケドと外傷で次々と死亡してゆく不幸な犠牲者の症状の変化をくわしく診ている暇がなかったというべきなのかも知れない。

5日もたつと死ぬほどの人たちは大方(おおかた)が鬼籍(きせき) に入り、かなり重症と思えた人たちにもヤケドに限って言えば少しずつ、快方に向うきざしが見え始めていた。ほとんどの者が全身にガラスの破片創(はへんそう)を伴っていて目をそむけるような凄惨(せいさん)な容貌(ようぼう)を呈していたが比較的ヤケドの深度が浅くて見た目よりは回復(かいふく)の可能性に期待が持て始めていたのである。

このころには村の人たちの手で校庭に柱が立ち、その上によしずが張られて床こそなかったが莚(むしろ) をしきつめた野外の病院がととのえられていた。8日の午後、出張先の大阪から院長が帰任して各地からかけつけた救援の医療班を掌握(しょうあく)、指揮を始めてから戸坂分院は村内の各民家の病室をも合わせてなんとか病院としての秩序(ちつじょ)と機能を回復し始めていた。死者の数も激増していたがますます増え続ける負傷者の現状を判断して戸坂に収容している患者のうち担送(たんそう) 可能な者を急拠、各地の分院に移送するよう指示された。しかし芸備線(げいびせん) 開通のめどもたたず、輸送車輌もない中でこの時機に実際に戸坂を離れることのできた者がどれだけいたか疑わしい。軍医の数が少し増えた程度で村を埋めつくす負傷者の大集団への対応が間に合うはずもなく、婦人会は勿論、歩行可能な患者の手まで借りる有り様だった。6日の深夜、乳房を縫って止血した医師の夫人も乳のみ児を村人にあずけて甲斐々々(かいがい)しく手伝ってくれていた。

治療といっても大部分はヤケドの処置と外傷の手当てだった。消毒らしい消毒もできない野外での荒っぽい処置にしては意外に化膿性(かのうせい)の炎症がほとんど起らなかった。その代り、身動きできない重症患者の傷口に血を求めてハエが群がり、目といわず鼻といわず耳といわず、真白な大きなウジが這いまわっていた。「気持が悪くてもウジはとらないように」という指示が出された。ウジが膿をきれいに食べてくれていたのである。

異変は正にそんな時に起った。何軒かの民家を歩いて重症患者の処置をして回るうち不思議な症状の患者にぶつかった。昨日から高熱が続いていると家人がいう。若い兵士で顔と左上半身に激しいヤケドがあり、脱水症状が強くて重症ではあったが生命に危険があるとは思われなかった。それが全身に汗をかいて湯気(ゆげ)のたつほど発熱している。昨日までは笑顔を見せてヤケドの清拭(せいしき)をする看護生徒に冗談をいうほど元気だったのが、げっそりと頬もこけて一目で症状が激変したことを示していた。顔から胸部にかけて右半身の健康な皮膚に無数の紫斑(しはん) が見える。舌圧子(ぜつあつし)でこじあけた口中の扁桃腺(へんとうせん)と口蓋(こうがい)粘膜(ねんまく)が真黒に壊死(えし) をおこしており、思わず顔をそむける悪臭が鼻をついた。扁桃腺や咽頭(いんとう)粘膜に炎症があれば高熱の説明はつく。しかし、全身の紫斑と口内の壊疸(えそ)性の変化の原因は見当もつかなかった。とりあえずヤケドの処置と強心剤、解熱剤(げねつざい)の注射をすませリンゲル氏液の点滴注射を指示して次の農家へ回った。9日の夜、玉造(たまつくり)分院からの救援隊によって大量のリンゲル氏液が補給され重症者には少しずつではあったが補液治療ができるようになっていた。線路沿いに歩いて数軒の農家を回り、本部へ帰りかけた後を飛ぶように衛生兵が追ってきた。
「大変です、○○が下血(げけつ) しました」
熱発して紫斑の出ていた若い兵と知ってすぐ引き返した。

ふとんから畳にかけての血の海の中で何が苦しいのか患者はもがき苦しんでいる。血液は下血ばかりでなく目尻からも鼻からも口内からも吹き出していた。何が起ったというのだろう。苦しまぎれに手をあげたその掌の下で患者の5分刈りの髪の毛がまるで掃き落としたように脱け落ちた。聞いたことも見たこともない症状に足がこわばり、手がわなわなと震(ふる)える。本能的に脈にふれたがあるかないかのかすかな響きしかない。刺したリンゲル針を守って必死に手足を押える看護生徒の顔色も真っ蒼(まっさお)だった。首を振ってごぼっと血を吐いた動きを最後に、何をする間もなく患者は事切れてしまった。

生れて初めて見る凄惨な死にざまにぶつかったのは私1人ではなかった。担当地域を巡回して診療にあたった軍医たちの報告の中に似たような症例がいくつかあって、一同が首をひねってあれこれ意見をのべあっている間に、急変患者が多発し始めた。それはまるで急性伝染病のように忽(たちま)ち戸坂村全体にひろがったのである。それも1人、2人と出るのではない。あちらに4人、こちらに6人、とかたまって発病してくる。多彩な症状のうち発熱と下血が共通する症状として、医師団の間では真剣にチフス赤痢(せきり) が考えられた。咽頭粘膜の壊疸状変化と不思議な脱毛や紫斑についてはそれを説明できる医学的根拠を示せる者はまだいなかった。強心剤と止血剤にリンゲル注射が望みえる最高の治療だったが、一命をとりとめた例は数えるほどしかなかった。

人々は5人、8人と時を限ってまるで申し合わせたように同じ時刻に発病し、相前後(あいぜんご)して死んでいった。そのことは爆心地を中心にした同心円上(どうしんえんじょう)で等量の放射線をあびた人たちが、ちょうど、放射線をあびせられてモルモットが医学と原子物理学の教える法則通りに発病し死亡するのと全く同じ経過を示したに過ぎなかった。しかし、その当時の私たちには大本営の発表した新型強力爆弾という言葉が原子爆弾を意味しているとは知るはずもなく、ほとんどの症例に共通する腸管出血を手がかりにチフスと赤痢を考えていたのである。

村民や患者には内密で深夜、院長の命令で死体解剖が行われた。雨の降る暗い夜だった。火葬の順番を待つ野積みの死体の1つをトタン板の上に安置(あんち)して、院長のさしかける傘の下で蝋燭(ろうそく)の灯をたよりに私は遺体の腹部にメスをいれた。目的は腸管の出血巣(そう)に炎症所見があるかどうかを検索(けんさく)することにあった。切り開いた腸の粘膜をバケツの水で洗いながら、ゆれ動く炎を近づけて丹念(たんねん)にしらべたが赤痢を思わせる所見(しょけん) はどこにも見られなかった。これより先、9日の夕刻、玉造分院からかけつけた分院長飯塚軍医大尉は部下の軍医とともに戸坂作業隊が掘りあげた洞窟(どうくつ)の中で漸(ようや)く手に入れた顕微鏡(けんびきょう)を駆使(くし)して血液検査を精力的に行っていた。そして、骨髄(こつずい)の血液像検査の結果、負傷者には汎(はん)骨髄症様の特異所見があること。脱水症状が顕著(けんちょ)であることを確認し、本症は、強烈なレントゲンよう、または、ラジウム光線ようの光を発する新型強カ爆弾による特異な疾病(しっぺい)である疑いが濃厚と考えた。そして治療方針としては、移動の厳禁・安静、栄養、補液、少量頻回(ひんかい) の輸血、各種ビタミン、および肝、副腎などの臓器製剤、各種解毒剤(げどくざい)などが適当と進言している。しかし、混乱を極(きわ)めた現地で、この方針は徹底せず、また、承知はしても薬品材料の不足や入手不能、人手不足からヤケド、外傷の局所処置に、重傷者への辛うじてのリンゲル補液以外は何1つできなかったのが実態であった。

やがて呉(くれ)の海軍無電室が「使用したのは原子爆弾である」とのアメリカの放送をきいたという話が伝わって疑問は一瞬に氷解(ひょうかい)した。今まで説明しきれなかった一連の不思議な症状が急性放射能症による造血機能障害ということで一切、解決するのである。そうしたことがわかればわかるほど、放射能をしこんだまったく新らしい兵器の出現に、あらためて身の毛のよだつような怖ろしさを感じていた。

そうときまったからといって特に効果的な治療法があるわけではない。若い薬剤見習士官の発案でビタミン補給には柿の葉がよいということになり、集めた柿の葉を大釜でせんじてのませて回ったのが気休めに似たせめてもの対策だった。

忘れもしない8月13日、何人もの犠牲者の死の脈をとっていいようのないやり切れなさをかみしめながら本部に引き上げる途中、私は何とも説明のつかない妙な死亡例にぶつかった。

話を一時、8月6日までさかのぼらなければならない。西白島(にしはくしま)の白壁をめぐらせた古い街並の一角に田村さんの家はあった。3人の息子を戦地に召されて夫婦2人のひっそりした暮しだった。その日の朝、朝食の膳(ぜん)に坐った御主人は誤って大切な湯呑茶碗を割ってしまった。無類の茶碗好きで、気に入ったのでないと「茶をのんだ気がしない」という彼は、上半身裸のまま、庭先の防空壕の掩蓋(えんがい) をあげて替りの茶碗をとりに入った。厚い掩蓋をしめた瞬間、かっと空が燃え、全身にガラスの破片をあびて血まみれになった夫人の背に大音響とともに家がくずれ落ちた。もうもうと立ちこめる砂ぼこりの中ですでに火が出ていた。

御主人が壕から頭を出した途端、真黒な煙の渦の中に炎の色を見た。「火事っ」と、きもをつぶして踊り出た田村さんは煙の中で幸運にも血にまみれて気を失っている夫人を見つけた。夢中で火の下からひきずり出して肩に背負うと裸足(はだし)のまま道路にとび出す。あちこちから火の手のあがり出した白島の街中を走り迷いながら猿猴川(えんこうがわ)の川原まで逃げた時は心臓が胸からとび出すかと思ったという。炎をうつした川の水が今にも燃え上りはしないかと恐怖の夜を水に半身をつけてまんじりともしなかった。明けて7日、田村さんはうめく力もない夫人を背負って中山峠(なかやまとおげ)を越え、夜もかなりおそくなって戸坂村の知人の農家の納屋(なや)に厄介(やっかい)になった。田村さん夫婦は同じ白島に住んでいた叔父(おじ)夫婦の知人ということで私が広島に赴任(ふにん)して以来、懇意(こんい)にしていただいたという縁があって、その夜半(やはん)、農家の土間(どま)で夫人の全身につきささったいくつかのガラスの破片を抜きとった。

数日後、元気を回復した田村さんはリヤカーと鍬(くわ)を借りて猿股(さるまた)1つの裸のまま炎天の広島にとってかえした。散々迷った末、やっと探りあてたわが家の焼け跡で瓦礫の下の防空壕の掩蓋を掘り出すと、衣類や夜具など当座の生活用品をリヤカーにつんで戸坂にかえって来た。

井戸端で汗と挨(ほこり)を洗い流した時、田村さんは両足の膝頭(ひざがしら)に親指大の水泡がいくつもできているのに気がついた。ヤケドをした覚えはない。痛みもかゆみもなかった。疲れもあって大して気にもかけずその夜はそのまま寝てしまった。1夜あけると驚いたことに膝から足首までが全部水泡(すいほう)になって、まるで両足にゴム風船をはいたような格好になっていた。ちょうど、夫人のヤケドの手当に巡回してきた衛生兵が「陽やけにしては変な場所だな」といいながら注射器で水泡の水をぬいて消毒して行った。ところが、何時間もたたないうちに水泡は元通りふくれあがってしまった。田村さんは針をかりて自分で水を出して沃度(ようど)チンキをぬっておいた。ところが、つぶしても、つぶしても水泡は生き物のようにしぶとくふくれ上った。まわりで異様な死にざまをする人たちが増え始めた折でもあり、なんとなく不安も手伝って1度、診察してほしいと頼まれていたのである。

陽の落ちた村内の細道をたどって田村さんのいる農家の納屋に1歩入ったとたん、夫にとりすがって泣きくずれている夫人の姿に驚かされた。自分で吐いた血の海の中で田村さんはすでに息絶えていた。

昼ごろ、この家のそばを通った私をみかけて「帰りに寄ってみてつかあさい。うまい茶をいれとくけん」と手を振った笑顔を見たばかりだった。夫人の涙の声をつづると、昼すぎから田村さんは突然、発熱して全身から滝のように汗をふき出し、痛がって両手でのどのあたりをかきむしったとのこと。やがて鼻血が出て血を吐き始めたという。「わしゃ壕ん中んおってピカに遭(あ)っとらんけん、まさか毛は」と頭をなで上げた掌の下で日ごろから自慢の黒々とした髪が嘘の様にぬけ落ちた。

町内の鳶(とび)の頭(かしら)が「どこの壕にも絶対に負けん」と特別、念入りにつくった壕の中にいて直接ピカをあびなかった田村さんが直爆をうけた人たちと全く同じ症状で死んでしまったのは一体、なぜなのだろうか。その謎が解けるまでにその後まだ相当長い時聞が必要だった。

担当した地域を毎日巡回して治療をするうち、ひどかったヤケドや外傷がよくなって醜い瘢痕(はんこん)は残しながら時には笑顔も見せるようになった負傷者たちが3人、5人と毎日のように死んで行った。甲斐々々しく立ち働いてくれていた例の乳房を縫った医師夫人もかえらぬ人になった。亡きがらにすがって乳を求める子どもの姿がいじらしくて立ち合ったすべての者が声を出して泣いた。死んだ児の治療を私にせがんだ若い母親も子どもの後を追っていった。数日前、細い村道ですれちがった彼女は私を覚えていて、両手にバケツを提(さ)げたまま身体を路肩によせて深く頭を下げた。醜く半面を焼いた顔に光る涼しい目の色を見て、子どもをすべて悪魔の火に奪われた悲しみに耐える健気(けなげ)さにうたれたばかりだった。

やがて8月15日が来た。
山かげで倒壊をまぬかれた校舎の1室で勲章(くんしょう)を佩(はい)した元吉院長閣下(かっか)と黒の礼装に威儀(いぎ)を正した校長と一緒に、私は敗戦の詔勅(しょうちょく) を報じるラジオを聞いた。雑音の中からようやく聞きとったいくつかの言葉をつづってわが国が降服(こうふく)したことを知ったが、そのことの無念(むねん)さよりもおそすぎた決断への腹立たしさが先に立っていた。「今こそ戦争を終らせる努カをすべき時」と書いた近藤少尉のありし日の顔がちらと浮んだが、今は考える時ではない、と頭を振って立ち上った。

軍医といっても現役将校の端くれ。戦いを非勢(ひせい) に導いた責任の一端は当然負わねばならない。院長が何かいいたそうに私の方を向いたが、私は会釈(えしゃく)して早々に室を立ち去った。あれこれの言葉をかわす前に、医師としてなすべきことがまだ戸坂村にはあまりにも多すぎた。

発病から死までの時間に少しずつ長さが加わってはいたが「原爆病」による死亡は少しも減る様子はなかった。焼場は夜を日についで炎をあげていたがひきも切らぬ犠牲者の数に追いつけず、順番を待つ遺体がウジをわかせたまま炎天の畔道(あぜみち)にならべられていた。

8月も下旬になるとさすがに戸坂村に集る被爆者もめっきり減って、一時はどうなることかと思われた在村の被爆者の数も急速に減り始めていた。その中には近在の縁者を頼って四散してゆく者もいたが、大方は時折、回送される芸備線の臨時列車で日本海岸の分院へ運ばれていった。その他に、数える術もない異様にうすい煙と化して戸坂の空にたなびいた者のあったことを忘れることができない。

8月の終りに近いある日、私の胸に今も残る一組の夫婦が死んだ。
その曹長(そうちょう)は陸軍病院と地続きの隣の部隊の下士官だった。病理の尾崎曹長とは同期で私とも何度か顔を合わせた間柄だった。この6月に営外居住が許されたのを機会に故郷の熊本から許婚(いいなずけ)を呼んで、原爆の落ちる3日前に晴れて世帯を持った。6日の朝、曹長は出勤途上で、新婦は新婚の間借りの台所で同時にピカをあびた。2人とも顔から胸にかなりのヤケドと外傷を負ったが、さいわいに生命をとりとめ、どうした偶然か別々に戸坂への街道を逃げてその夜、おそくなって小学校の校庭に横たわっていた。もちろん相手が同じところにいようとは2人ともまったく知らなかった。2人を距てていた何人もの重症者が次々と遺体に変って運び出され、夫婦はいつの間にかすぐ近くに横たわる身となったが、変り果てた2人の容貌にまさかお互いが最愛の伴侶(はんりょ)とは気づかずそのまま数日が過ぎた。それが次第に体力が回復して少しは動けるようになった2人はどちらが先に気づいたか、声で相手をそれと知り相抱いて再会に泣いた。2人の出合いはたちまち戸坂の村中にひろまった。地獄(じごく)さながらの悲惨な苦しみの中で暗く沈んだ人々の心にほのぼのとした生きるよろこびを通わす絶好の話題だった。多くの人たちのはげましをうけて2人は日毎に元気をとり戻し、醜い瘢痕(はんこん)を残しこそすれ、なんとか故郷の熊本まで帰る自信ができるまでになっていた。

その日の朝、山陰線を回って熊本へ帰る手筈をととのえた曹長は村の人たちの心づくしの浴衣(ゆかた)に身を包んだ新妻(にいづま)を伴って私に別れのあいさつをいいに来た。敗戦と同時に軍隊が武装(ぶそう)解除され、各地の部隊から一斉に復員(ふくいん) する将兵で広島を通過する山陽線は列車の屋根まであふれる状態で被爆者の乗りこむすきなどまったくなかったのである。
「熊本へ帰ったら一生けんめい米をつくってお国のためにつくします」
目頭をうるませた曹長がていねいに頭を下げて夫人とともに室を出ようとした。そして敷居(しきい)につまずいた。いや、つまずいたように見えた。そのまま廊下(ろうか)へ出るはずの曹長が突然身体を折るように膝をつくと
「うつ」
と、うめいて口を押えた。その指の間から糸をひくように血が滴りおちる。あっという間もない出来事だった。担架を血に染めて病室へ運ばれる曹長にとりすがる夫人の姿を見るに耐えない思いがした。

「血が出たらだめ」という不安を振りはらって全力をあげての治療が続けられた。とりすがったまま泣き続ける夫人の涙が血の色に変り、髪の毛がぬけ始めたのは太田川の対岸の峯に陽の色がさし始めた早朝だったという。まさかと手をとって脈にふれた看護婦が驚いて体温計をいれた時はすでに39度を越えていた。この2人だけはと必死にがんばった甲斐もなく、さらに1夜明けた翌朝、ほとんど時刻をたがわず若い夫婦の息が絶えた。

肥田(ひだ)舜太郎(当時・軍医) 記

戸坂分院で扱った被爆者数

  1. 練兵場、尾長、矢賀方面から中山峠を越えてきた約3500人
  2. 大芝、長束から渡船で川を越えてきた約1500人
  3. 船舶工兵隊の舟で太田川を運ばれてきた約2000人

計13000人といわれる、内、死者は約1300人
(戸坂で焼いた死体数、戸坂を離れてどのくらい死んだかは一切不明)
(「広島市原爆戦災誌」第一巻第一編総説より抜粋)

戸坂村、村民の被害

  1. 総戸数307戸、総人口1440名
  2. 家屋の倒壊による即死約49名
  3. 同負傷者112名

但し、広島市内で被爆して死亡、負傷者はふくんでいない
(「戸坂原爆の記録」、昭和52年広島市戸坂公民館)





ここに掲載する文章の著作権は戸坂公民館にあります。

Some Rights Reserved


Hiroshima Speaks Out

URL : h-s-o.jp

お問い合わせ : コンタクトフォーム