一軍医の記録

3.地獄からの出発

生き残った重症者の大部分が広島第一陸軍病院の集結地となった可部(かべ))の分院に送られ、また、何回かの列車輸送で大方の被爆者が戸坂(へさか)村を離れていった。ある者は山陰の分院を目指し、ある者は山陰線回りで故郷へ帰って行った。300戸近い農家に散在していた借上げの病室はほとんど閉鎖(へいさ)され、残った被爆者の大部分が小学校へ集結した。九州に展開していた諸部隊から派遣された支援の軍医たちも次々と復員(ふくいん) して家庭に帰り、戸坂分院には藤本分院長以下、数名の医師が100名を少し上回る患者とともに残っていた。

噂(うわさ)されていた占領軍(せんりょうぐん) 進駐(しんちゅう) が始まって、村はその話で持ち切りになった。女は見境(みさかい)なく襲われるから髪は切った方がよいとか、武器をかくした男はその場で射殺されるとか、無責任な流言飛語(りゅうげんひご)がとび交う中で一時は、看護婦に青酸加里(せいさんかり) の包みが、将校、下士官には拳銃(けんじゅう)が、兵には手榴弾(しゅりゅうだん) 1箇ずつが配られ、万一、襲撃(しゅうげき)された時(看護婦は狙われると、本当にそう思っていた)は力いっぱい抵抗して全員、自決(じけつ) しようと真面目に相談されていた。

この武器が妙なところで意外な役に立つことになったのである。そのころ、広島周辺の村々に疎開(そかい) されていた軍の資材や食糧が集団で襲われる事件が頻発(ひんぱつ)していた。要求を拒んで殺されたものがいるとも聞かされていた。しかし、病院のあるここへは、と油断していたところを十数名に襲われてしまった。

夜の8時すぎ、重症の患者が亡くなって最後の処置に立ちあっていたところへ村民の1人が真っ蒼(まっさお)な顔でかけこんできた。線路下の村の有力者の家に兵隊服の15〜6人が押しかけてきて、蔵(くら)を開けろと騒いでいるという。宿舎に帰っている藤本分院長に伝令(でんれい) を走らせると案内の村民につづいてすぐ、走り出した。拳銃のあることがそうした軽率(けいそつ)さを招いたとは後で知ったこと。

息を切らせて農家の表に走りこんであっと思った。手に手に抜き身のごぼう剣をさげた十数人が蔵の前に群がって口々に何かわめいている。蔵の扉の前の石段の上にこの家の主人らしい夫婦が膝をついて何かを訴えていた。話が通じる状況ではない。何人かが振り向いて私を見た。躊躇(ちゅうちょ)はできない。私は拳銑の安全装置をはずすと空に高くさし上げながら一同の脇を全カでかけ抜けると蔵の扉の前にかけ上った。
「肥田中尉(ちゅうい) だ。話は俺が聞く。剣を鞘(さや)におさめろ」
息は切れたが声はよく透きとおった。緊張で身体を震わしている夫婦をかばうように立ったが拳銑を握った手のやり場に困っていた。ぶつぶつ、つぶやく声が出て何人かが剣を鞘におさめかけた。
「やいっ、軍隊なんかもう、ねえんだ。中尉もへちまもあるかっ」
隅の方にいた1人が鉄鞘(てつさや)の軍刀をひきぬくと大股に前へ出てきた。軍服の前をはだけて2度、3度、白刃(しらは)に素振りをくれた姿には凄みがあった。
「打てるかよ、中尉さん、こっちは大勢だ、おとなしく蔵を開けてもらおうか」
何度も弾の下をくぐった貫禄(かんろく)なのか、口先でどうとかできる相手ではない。追いつめられた気で拳銃の銃先をこわごわ相手の胸に向けた。銃把(じゅうは)を握る小指に次第に力が入る。相手の顔からさっと血のひくのが見えた。今、引き金が落ちるかと見えた瞬間、耳を覆う小銃の一斉射撃が起った。と、分院の7〜8名が大声をあげて走りこんでくると立ちすくんだ集団に小銃をつきつけていた。

勝負は武器のない彼らの完敗だった。口惜しそうに頭を下げた隊長格の男に私は蔵に疎開(そかい)されていた大きな重い木箱を1つ出してやった。意趣(いしゅ)晴らしに、他の村で暴れられるのが嫌だったからである。2人がかりでかつぐ重い獲物(えもの)をもらって彼らが闇の中に消えたあと、木箱の中身が軍靴の裏にうつ鉄の鈔(しょう)とわかって大笑いになったが、こんなことでもしなければ鬱憤(うっぷん)の持ってゆき場のない彼らの気持が分らないでもなかった。

残留放射能による犠牲者が出はじめたのもそのころである。9月上旬の新聞に、「もう人体に害なし、爆心地の汚染度は急速に減退」という記事を見たり、「残留放射能」という言葉も耳にはしていたが、どういう仕組みで放射能がいつまでも地上に残っているのか、私たちには全く不可解だった。しかし、事実は科学に忠実に進行していたのである。

線路より上の大きな農家の離れ座敷に下肢(かし)を骨折して動けない被爆者がいた。屋内被爆でヤケドはなく、全身に受けたガラスの破片創(はへんそう)も大半は治癒(ちゆ)していたが、くずれた家屋の下敷で骨折した右の大腿(だいたい)に副木(そえぎ)固定をして長期の安静を強いられていた患者である。他県から広島県庁への転勤で4月に単身赴任(ふにん)したばかり。夫人が主人の安否(あんぴ)をたずねて広島に入り、比治山(ひじやま) 下にあった下宿から県庁までの焼け跡を何日も探して歩いたという。方々の収容所治療所をたんねんにたずね歩いて、最後にこの戸坂分院で主人に巡り合うことができた。

その夫人が突然、倒れた。まめによく看病するいい奥さんと評判だったのにと、そんなことを話しながら巡回診療のついでに立ち寄って思わず脊すじが寒くなった。毛布を胸までかけて横たわっている夫人の白い頸(くび)すじから胸元(むなもと)に不気味な紫色の斑点(はんてん) を見たのである。瞼の裏も爪床(そうしょう)も怖ろしいほどの貧血だった。

それから夫人がたどった症状の経過は直接、市内で閃光をあびた被爆者と全く同じだった。身動きできない主人の必死に名をよぶ声も届かず、抜けおちた黒髪を鮮血に染めて夫人は絶命した。

まるで、それが合図でもあるかのように、何日もたってから広島市内に入った人たちの中から貧血や下痢(げり)や嘔吐(おうと)など、いわゆる急性放射能症状が出はじめた。もちろんそのすべてがすぐに死の転帰(てんき)をとったわけではない。しかし、閃光にも爆風にも全く縁のなかった人たちが、ただ、爆心地近くに入っただけで発病してくるということが、当時の私たちにはどうしても納得(なっとく)できなかった。その典型的な例が1つある。

広島へ赴任(ふにん)して何かと世話になった友人の身内(みうち)で何度か一緒に食事をしたことのある中島さんの死がそれだった。新築の家が自慢で、1夜、私を夕飯に招き、16坪に制限された設計ながら全国からの銘木(めいぼく)を集めたという苦労話をうれしそうに語ったその顔が昨日のように思い出される。

中島さんは無類(むるい)の釣好きで8月6日の早朝は大畠(おおばたけ)の瀬戸に舟を出して無心の糸をたれていた。夫人は新築の中2階の納戸(なや)で探しものをしていたという。流石(さすが)に自慢の造りだけあって爆心から1.2の距離にもかかわらず家は倒壊(とうかい)を免(まぬが)れ、夫人はかすり傷1つ負わなかった。少したって隣家から出た火に追われて夫人は饒津神社(にぎつじんじゃ) 下の川原に逃げ、そこで1夜を明かした。

中島さんが、広島が大きな被害をうけたとの話を耳にしたのは正午近くだった。半信半疑で汽車に乗ったが五日市(いつかいち)で下ろされてしまった。それから先は不通だった。行く先に巨大な雲の峰を望みながら線路伝いに広島へ着いた時は夜空を真赤に火柱が染めていた。どこをどう歩いたか、夫人らしい姿を饒津神社のあたりで見かけたという人の話を頼りに尋ね尋ねて、水の中に半身をつけて震(ふる)えている夫人を見つけたのは翌日の早朝近くだった。その日、中山峠(なかやまとおげ)を越えた2人は戸坂村の知人の家で休息し、私が戸坂村にいることも知らず太田川(おおたがわ)上流の三次(みよし)町の親戚を頼って行った。

戸坂小学校が正規に授業を再開する都合もあって戸坂分院閉鎖(へいさ)の方針が伝えられ、移転先の交渉その他で忙しくかけ回っていた私の前に突然、中島夫人が現われた。あまりにもやつれ果てたその姿に初めは誰とも見分けがつかなかったが、その口から意外にも御主人の死を告げられて2度、驚かされた。聞けば、発病から息をひき取るまでの経過は正に急性放射能症状そのものだった。なんということだろう。爆発の瞬間、彼は60キロも離れた瀬戸(せと)の海に浮んで釣糸をたれていたのである。直下近くで直爆をうけた夫人をさしおいて、なぜ、彼が死ななければならないのか、どう理屈で説明しても胸におちる話ではなかった。

10月半ばになって広島の2つの陸軍病院の行く先がようやく決まった。全国の陸海軍病院が新設された厚生省(こうせいしょう) に移管(いかん)され、国立病院として再発足(さいほっそく)するという方針が伝わったのはかなり前で、私の身分もいつの間にか厚生省技官という官吏(かんり) になっていた。それが、第二陸軍病院の方は宇品(うじな)の元船舶部隊の兵舎を改造して広島国立病院になるときまったのだが、第一病院の方がなかなかはっきりしなかったのである。宇品に進駐(しんちゅう)した占領軍(せんりょうぐん)司令部へ何度も足を運んで、山口県柳井市(やないし)から熊毛(くまげ)半島の東岸伝いに10キロばかりいった伊保庄村(いほのしょうむら)の元船舶工兵隊の兵舎と最終的に決まったのが4日前。早速、船で現地へ行き、残っていた責任者の将校と一緒に営庭に並べた一切の兵器をオーストラリア軍の責任者に引渡しをすませて帰ったのが咋日、今日は戸坂の部隊を人員、患者、物資もろとも伊保庄村に開設する柳井国立病院まで輸送する方法について司令部の担当者と最終のつめをするため宇品へ来ていたのである。二世の通訳を中にいれて物わかりの悪い米軍将校と折衝(せっしょう)するのは本当にわずらわしかった。敗者が勝者の前にひざまずく屈辱感(くつじょくかん)がなかったわけではない。しかし、何度か会っているうちに人間らしい親しみがわいて時には片言の英語が口に出るようにもなっていた。

この日、似島(にのしま) の船会杜の機帆船(きはんせん)を借りあげて宇品の桟橋(さんばし)から海路を輸送してもよいとの許可証を受取って立ち上りかけた時、近くに立っていた2人の外人が話しかけてきた。軍服ではなかった。
「ドクター、ひだ、わたし、ピエール、フランスの記者です。こちらはピョルンソン、スウェーデンの同業者」
けげんな顔をする私に笑顔で握手を求めてくる。年配の人なつっこい表情で日本語は達者だった。通訳の二世が立ち上ってきて説明してくれた。被災地の現場の案内を求めて司令部へ来たが手がなくて断ったところ、当日を知っている日本の将校がくると知って先ほどから待っていたという。短時間でよいから是非、と一緒に頼みこまれた。あまり気はすすまなかったが、軍人でないことと言葉の心配がないことが魅力で引き受けることになった。ピョルンソンが運転してピエールと私が並んで坐る。乗るのははじめてのジープだった。

市内に近づくにつれてまだ焼けた匂いのする市街の模様に2人が声をあげて驚嘆(きょうたん)する。ところどころにバラックが建てられて炊事らしいうす煙の上がるのが、かえって痛ましかった。

爆心地附近から城跡に向う。死体こそなかったが、ここが人間の住んだところかと、あらためて惨禍(さんか)の大きさに胸をうたれた。

車をすてて広島城跡に入る。堀に傾いて葉を水につけた老松(おいまつ)の裂けた幹の生々しさに2人は言葉もなかった。色あせた芝生の築山(つきやま) を越えて池のほとりに出る。あの木の下に米兵の捕虜(ほりょ) がいて、思わず縄を切って放ったと話したらどんな顔をするか、と興味が湧いたが口をつぐんだ。まだ息の残った瓦礫(がれき)の下の生命を見殺しにしてかけ回ったあの日、おびただしい人間の死を死と意識する敬虔(けいけん)ささえ失ってしまう「きの子雲」の下で1人の敵兵の喉元の乾きに情をよせて縄を切る行為のなんと愚かしいことか。

堀端の石垣の端に腰を下ろして少し休むことにする。3人の煙草の煙が風のない夕凪(ゆうなぎ) の広島の空に真直ぐに上っていった。
「ドクター、あなた、なぜ、アメリカ、原爆つかったと思うか」
ピエールが突然、問いかけてきた。私が知っているのはアメリカ大統領が公式に発表した声明だけである
「戦争を1日も早く終らせて米国の若者の血をこれ以上流させないため」
と私はその通りに答えた。
「ドクター、そんなこと、まさか、信じてないでしょう、ね」
さも意外だという顔をして、隣のピョルンソンを振り向いたが、スウェーデン人は芝生の上に長々とねそべって軽いいびきをかき始めていた。
「それ、ちがいます。本当ではない。にっぽん、おきなわを失って、せんそうつづける力、なくなりました。2月にはにっぽんせいふ、かわって、こうふくじゅんびはじめたと、わたしたちかんがえていた。おなじ2月のヤルタ会議で、ソ連のにっぽんこうげき、ドイツのこうふくご、3ヶ月ときまりました。ヒットラー、5月8日にこうふくしています。ですから、8月の10日ごろ、ソ連がシベリアからこうげきすること、アメリカ知っていました」

ソ連が日ソ不可侵条約の延長を拒否しての対日参戦がそういう国際的な取り決めの結果だったことは寝耳に水の話だった。
「にっぽん、かいぐん、ぜんめつしました。うみをこえてとべるひこうき、1つもありません。大きなまち、みな、やけました。こくみん、たべるこめもない。にっぽん、こうふくする1歩、まえでした。げんしばくだんおとす理由、1つもありません。でも、アメリカ、つかいました、なにか、わけ、あるはずです」
言葉はたどたどしいが、理路整然(りろせいぜん)としている。私はいつの間にか彼の話にひきこまれて、息をつめて次の言葉を待った。待ちながら誰かの話に似ているなと感じ始めていた。
「アメリカは、せんそう、まだ、おわらないとき、つぎはソ連とせんそうになるときめていました、おもしろい話、あります。ドイツがソ連にせめこんで、まだいきおい、つよいとき、チャーチルルーズベルトがあるところでそうだんしました。ドイツのクルップの杜長のまねきといわれています。ドイツとのせんそうをやめてヒットラーとなかなおりをし、いっしょにソ連をやっつけようというのです。本当かどうか、わかりません。しかし、ありそうなこととおもいませんか。

アメリカはじぶんでソ連にたのんでおいて、ソ連のにっぽんこうげきがちかくなると、そのまえにげんばくをおとさなければと、ばくだん、いそいでつくりました。にほんのこうふくはソ連のためでなく、アメリカがげんばくおとしたからということを、ソ連にもにっぽんにもおもわせるためです。こうふくのあとのこうわかいぎでソ連のはつげんけんをおさえ、にっぽんをソ連こうげきのきちにすることが、げんしばくだんをつかった1つのりゆうです」
確信のほどを示すように彼は右手の人指し指を1本、私の目の前に真直ぐにつき出した。「アメリカのにっぽんへのげんしばくだんとうかは、ドイツがこうふくしたあと、すぐに、しかも、ひろしまというちめいまできめられました。それは、ひろしまのたいらなちけいが、ほうしゃのうのいりょくをためすのに、つごうがよかったからです。しかも、アメリカはひろしまのにんげんがいちばんたくさん、たてもののそとにいるじかんをしらべて、ちょうどそのじかんにおとしています。8じ15ふんというじかんは、きしゃやでんしゃがひろしまについて、まわりのむらからつとめにでる人たちが、ひろしまのえきでのりものをおりて、みんなみちをあるいていたときでした。また、ぐんたいでもがっこうでも、ひろばでたいそうしたり、はなしをきいていたときでした。

アメリカはひろしまではじめてつかうげんしばくだんのじんたいじっけんをしたといわれてもいいわけはできないでしょう。これが、2つ目のりゆうです」
話し終ったピエールは、私の反応をたしかめもせず、立ち上って大きなのびをすると、まだ寝入っているピョルンソンの足を軽く蹴(け)った。目をさましたスウェーデン人はしばらくあたりを見回していたが、はずみをつけて起き上ると帽子でズボンについた土をはらって何か早口でしゃべった。「さ、かえろうか」とでもいったのか。
夕映えに赤くいろどられた築山に立った3人の影が長々とのびていた。私も立ち上りながら、ふと、ピエールと名乗る記者の感じがなんとなく近藤少尉に似ていると思った。

10月も終りに近い肌寒い夕刻、広島陸軍病院戸坂分院の患者と職員の全員が大八車をつらねて宇品の桟橋に到着した。一時は万を越したといわれる戸坂村の被爆者も多くが身寄りを求めて各地に散り、少くない人が戸坂の空になびく煙と消えて、今、病む身体を毛布にくるむ100のいのちが海を渡って新設される国立病院にいこいの場を求めようとしている。3隻の機帆船が桟橋に船体を横づけにして荷積みが姶まった。

やがて西に沈む陽を追うように船が宇品の岸壁を離れた。熊毛半島は伊保庄村の瀬戸の内海に面する新しい柳井国立病院を生み出すための旅立ちであると同時に、知らぬ間に厚生省技官に編入された1人の医師の新しい人生への出発でもあった。

甲板(かんぱん)に立って暮れてゆくタ凪の広島湾に名残りを惜しむ私の胸中に、広島を離れても離れることのできない途方(とほう)もなく大きな「きの子雲」の影が去来していた。8月6日の午前8時15分を境にして、私が見、聞き、体験したひとこま、ひとこまは、たとえ、長い年月の間に記憶から消え去ることがあっても、肉体の奥深く刻みつけられた悪魔の火の爪痕(つめあと)とむすびついて、原子爆弾への怒りは永久に炎となってこの身を焼き焦がすであろうと思っていた。大正から昭和にかけて28年の人生は、今にして思えばただ無為(むい)、としかいいようがなかった。物心ついてからかかわり合ったはずの戦争の足取りに自分は何を考え、何を行ってきたのか。問われて定かに答え得る何ものももたぬ私に、近藤少尉はいみじくも「一貫してつらぬくものなし」と痛烈に批判し去ったではないか。サイパン硫黄島、そして最後に原子爆弾と、死ぬべき機会を3度もかわし得たのは偶然(ぐうぜん)にすぎない、もし、そのことに何らかの意義があるとすれば、それはすべて、明日からの己(おのれ)のありようにかかっていると覚(さと)らざるを得なかった。

思えば、身代りになるべき多くの有為(うい)の人たちを失った。その中で、一きわ、大きく、深く影を落とした近藤少尉
「国敗れて山河は残り、民族は死滅しません。敗戦の痛苦(つうく)に耐えて二度と戦争を望まぬ祖国を築くために、生きのびてほしい」
切々と胸にせまるその文字は今もありありと脳裡(のうり)にうかぶ。生きのびるべきだったのは、近藤さん、あなたでした。

船はいつか宮島(みやじま) をすぎて暮れおちた瀬戸の海面をすべるようにすすんでいた。単調な焼玉(やきだま) エンジンの響きが心地よく身体をゆすってくる。突然、からだの奥底からたぎるような激情がこみ上げてきた。
「原爆なんかに殺されてたまるか。生きてやる。どこまでも」

1945年が終るにはまだ、少し時間があった。

肥田(ひだ)舜太郎(当時・軍医) 記





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