「流灯」掲載によせて
「流灯」は1970年、被爆25周年を記念して、原爆で亡くなった国民学校の児童生徒、教師の碑(原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑、1971年8月4 日除幕)を建立しようという運動の一環として、犠牲になった子どもたち、教師の父母、兄弟から寄せられた手記である。
1945年当時広島には、市内に居住していた者、通勤していた者、建物疎開のために動員されていた者などあわせ、昼間人口が約40万人いたと考えられている。8月6日午前8時15分、広島に投下された一発の原子爆弾は、この40万人の内、同年末までに約三分の一にあたる14万人の命を奪い、残された者の生活をも破壊してしまった。その中には国民学校に通う児童約2000人と教師約200人も含まれていた。
当時小学4年生から6年生までの多くの学童は、日ごとに激しくなる本土への空襲を避けるため、親から離されて郊外に集団疎開させられていた。市内に残っていた子どもたちのほとんどは乳幼児と一年生から三年生の幼い子どもたちであった。この幼い小学生達は毎日学校に通っていたものの、勉強することはできず、校庭を耕し、野菜を植え、水遣りなどをする日々であった。当時の食糧不足はそこまで深刻だった。8月6日も子どもたちは元気に「行ってきます。」と家を出て、学校に集まってきていた。そしてあの原爆が炸裂したのである。
この手記集は、元気に家を出て行った我が子の姿を、二度と見ることができなくなった親たちの叫びである。なぜこのような幼い子どもたちが犠牲にならなければならなかったのか?この子達に何の罪があるというのだろうか?戦争を始めるのは一部の政治家かもしれない。そしてすべての大人にはそれを止めるために手を尽くさなかったという罪がある。しかし子どもには何の罪もない。勝つまではほしがってはいけないと空腹を我慢し、戦地に送られる兵士を「万歳」といって見送り、国のために死ぬことを美徳と教えられ、そして灼熱の地獄の中で焼かれ、この子どもたちは亡くなっていった。
現在でも世界各地で戦争が絶えることはない。そしていつもその犠牲になるのは幼い子どもたちである。この手記を読まれたみなさんが、決して罪のない子どもたちの命を奪い、我が子を失い悲しみに打ちひしがれる親を生み続ける戦争に加担する大人にはならないと誓ってくださることを心から願っている。
この手記をより多くの皆様に読んでいただくために、私ども「Hiroshima Speaks Out」は、このサイトに「流灯」を掲載することとしました。これら手記の掲載にあたって許諾をいただきました広島教育研究所に心から感謝いたします。
Hiroshima Speaks Out
浜井道子
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