音楽と写真

7歳で被爆した石井みち子さんが作詞された曲、「夾竹桃の子守唄」をお聴きください。
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「夾竹桃の子守唄」の歌詞

「夾竹桃の子守唄」

加藤 江利子 作曲
石井 みち子 作詞

1.
川舟のような緑の葉が揺れる
赤い花の夢見て 眠る少女よ
白い砂にまみれて 今も七つのまま
黄金いろ夕空が 消える間も夢の中

2.
星影瞬き きみの瞳揺れる
赤い花に乗り 遊んでいる夜露よ
白い砂にまみれて 今も七つのまま
すすり泣いているような そこは銀河か空の果て

3.
どこまで行くの 汚れたままのきみよ
赤い火を噴く夢を見た 少女よ
白い砂にまみれて 今も七つのまま
今更ながら涙 ここは川辺か 夢の中

石井みち子さん本人からのコメント

この歌は、20世紀から21世紀に向かうこの世界が、いつまでも平和であるように、との祈りを込めて広島市が公募した「広島の歌」の入選作品です。
この「夾竹桃の子守唄」は、加藤江梨子さん(当時、22歳)の曲を聴きながら、私の被爆体験を基にイメージした詩を音符の下に振って出来上がりました。

私は、広島市の中心部(爆心地から1.1キロの地点)で被爆して、家の下敷きになりました。あの時、姉や近所の人々に助け出されなかったら、私の命は七歳のままで終わっていたのです。
私が逃げて行った東練兵場(現在は、JR広島駅の新幹線口の前)では、建物疎開に駆り出された何百人もの中学生が、身体中を焼かれて灰色になってゆらゆらと、並んで歩いて来ました。一様に、帽子の下にあった毛髪が焼かれて無くなり、身体中が膨れ上がった姿でした。
その晩、私は、二葉山の中腹の東照宮に収容されました。家族が探し出してくれたのは、十日ばかり経ってからだったそうです。私の家族たちも全員被爆しました。ケガをしたり、熱傷を負っていましたが、命だけは取り留めました。しかし、親戚の数人が八月六日に亡くなりました。女学校の教師だった親戚の者も、建物疎開の動員先で女学生とともに亡くなりました。

この「夾竹桃の子守唄」は、幼子を安らかに眠らせる曲ではありません。ここに登場している七歳の少女は、私自身であり、原爆で死んだ多くの子どもたちです。そして、この詩に現わしている色彩は、被爆時、私が見た炎の色であり、東練兵場や東照宮の山の上から見た、キノコ雲の足の部分の色です。
死んでいった子どもたちの悲惨な描写は、私には、とても出来ません。同じ被爆者です。夜露のごとく儚く消えていった子どもたちに、悲しみの祈りを込めて、泣きながら歌って慰めてあげたい。そうすることが、供養であり、平和へと繋がっていくと思うのです。
当時、国民学校三年生以上の学年は学童疎開をしたのですが、低学年は親元に留まっていましたので、たくさんの子どもたちが一瞬にして被爆死しました。その実体は、未だに明確に把握できていない状態だそうです。

アメリカの攻撃機B29が投下した原子爆弾は広島の上空600mで炸裂、地上に届いた瞬間温度は4000度もの灼熱だったということです。
原爆投下後の歳月、被爆者は言うに及ばず、被爆をしていない人たちも被爆後の広島や長崎に関わったのが誘因となって、残留放射能の影響で治療法も見つからない病気で死んだり苦しめられて来ました。

私たちは、全ての存在を否定するような核兵器を作ったり使ったり、人の世の駆け引きの為に欲しがったりしてはなりません。また、核兵器を背景に政治をする人たちを選び出してはならないと思います。
だからこそ、私は、子どもたちの眠りを誘わないで、子どもたちの心を揺さぶらせたいと思って「夾竹桃の子守唄」を、作詞しました。

この思いを、次世代の人たちが、しっかり受け止めて欲しいと思っています。

石井みち子




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