31.何もしてやれなかった“博”
当時、私の主人は、海軍の方に召集されていて不在でした。私ら親子5人は、場所をかえて被爆しましたが、末っ子の博だけが、大ヤケドで死にました。
8月6日は、それぞれ国民学校・中学校・女学校へと家を出ました。私は白島町(はくしまちょう)の安田高女に勤めていました。博は国民学校2年生で、当時は分散授業で、近所のお寺で授業をうけておりました。
私は、2階校舎の下じきになり、やっとぬけ出すことはできましたが、頭にケガをして出血が多く、やっとの思いで長寿園(ちょうじゅえん)あたりにのがれていました。太田川(おおたがわ)の水が少なくて、私は川を渡り、祇園(ぎおん)方面に歩きました。ちょうど、生徒の家近くを歩いていて、その日は、そこへ休ませてもらいました。
あくる日、祇園(ぎおん)神社で男の小学生らが、おかあさん、おかあさんと叫びつづけ、大ヤケドをして、かわいそうに――という話を聞きました。私は、ふらふらするからだを起こし、生徒につれて行ってもらいました。そこに、博をみつけました。もう、何とも、ことばで表すことができません。なさけないやら、かわいそうなやら、腹がたつやらで、涙も出ませんでした。私をチラット見ました。安心しましたのか、それきり目をつぶりました。
手当ても何もしれやれません。親切な方が、車に乗せて可部(かべ)の品窮寺(ほんぐうじ)につれて行ってくれました。そこでも、何の手当てもできず、ただ、水、水、水でした。十分に飲ませました。うわ言ばかりいっておりました。私も血まみれでしたが、どうしてもらうこともできず、2人で横になっているばかりでした。
寺の中では、「ここにも死んでいる」「そこにも死んでいる」という声ばかりでした。そして、そのたびに運び出されましたが、私の子どもがかつぎ出されるなどとは、考えもしないことでした。
8日午前10時ころ、うわ言をいわないようになったと思っていましたら、息を引きとりました・・・。町の方が火葬をしてくださって、9日に骨をいただき、お寺をあとにしました。
私は、みなさんに親切にしていただきましたが、今もって骨を拾うこともできず、悲しい思いをしておられる方が数知れずおられます。そして、この子らの碑を建てていただき、心からお礼申しあげます。
西川 サト(広島市東観音町)記
- 被爆死
- 西川 博(三篠(みささ)国民学校2年生)