32.神も仏もなくて

  私は声の限りに叫んだ。「晴信ちゃん、賢二ちゃん。」人びとは狂気のような私の顔を振り返った。だが別に不思議に思う人もいなかったし、声をかけてくれる者もいなかった。

  瓦(かわら)が小山のように道に崩れ、歩くこともむずかしい道を、足を血だらけにして、吹き出る汗を手でぬぐいながら歩いた。

  気持ばかり焦るけれども、足は、のろのろとたよりない。道行く人びとは、だれも異様なかっこうであった。ワカメを着て歩いているといったら、1番ぴったりとした表現になるだろう。私自身、着ているものは焼けこげて、ワカメのようにぶらさがっている。肌につけた白い木綿のシャツとズロースが原型をとどめ、紺ガスリのもんぺは、もはや1枚のワカメとなっていた。真夏の焼けつくような暑さの続いていた、昭和20年8月6日の、原爆の落ちた日の広島のできごとである。

  人びとは、私と同様なかっこうで、顔は真黒な灰をかぶっていて、その色は北海道の馬鈴薯(ばれいしょ)を連想させた。その顔は、魂をうばわれた阿呆(あほう)人形のようであった。ただ黙りこくって、ものをいうことも忘れ果てたのか、知人を見ても、だれもだまっていた。何をいっていいのか、ことばがみつからなかった。どこに行くのか、人びとは、右往左往していた。からだには何もつけず、裸で歩いている者もあった。そのからだの一部は、ペロリと皮がむけて、ぶらさがっていた。けれどだれ1人として、何がどうなったのか、さっぱりわからず、だまって、フラフラと幽霊(ゆうれい)のように歩いて行った。今でも夢のように私の目に残る原爆で、壊滅(かいめつ)した広島の人びとのあの日の表情である。爆心地とおぼしき方向は、黒い煙や、白い煙が、ごっちゃになって空高く登っていた。

  私はこの日、近所の人のかわりに建物疎開(たてものそかい)の勤労奉仕(きんろうほうし)に出勤していた。日米戦争(にちべいせんそう)も、もはや最後の断末魔(だんまつま)の様相(ぎょうそう)をおびていた。米軍は本土上陸を目ざして、日増しにはげしい大攻撃を加えていた。長い戦いにつかれ果て、物資の欠乏は、もう、なすすべもないまでに追い込まれ、瀕死(ひんし)の状態になっていたのだけれど、無知でうたがうことを知らぬ私たちは、まだ敗(やぶ)れることも知らず、ひたすらに日本の勝利を願って、何ごともがまんにがまんをかさねていた。小さな子どもをかかえている私たちまで、やれ、建物疎開だ、勤労奉仕だと狩り出された。

  私もこの日、幼い子どもを残して、建物疎開の瓦運びに行き、この運命の原爆を浴びたのである。あの朝は7時までの集合で、6時半に家を出た。満7歳と4歳の男の子は、お隣の谷川さんに頼んだ。そこの奥さんは、からだをいためておられたけれど、心よく引き受けてくださった。

  「行ってくるからね。賢ちゃんを頼んだよ。」と、兄の晴信に弟のことをよくたのんだ。7歳の息子は、「大丈夫だよ。賢ちゃんは、ボクがよく見るよ。」しっかりしている子どもの元気な声を後に、集合場所の兵器廠(へいきしょう)前に出かけたのだった。

  作業が鶴見橋(つるみばし)だったので、点呼を受けて、鶴見橋にぞろぞろ列をつくり、旗をたてて歩いた。比治山(ひじやま)よりの橋のたもとについたのが7時50分ごろだったと思う。人数は、約200名くらいだった。「これから作業の割当てをきめるから、ちょっと休んでいてください。」と、係の役員の方はどこかへ行かれた。

  私たちは、日かげにしゃがんで、むだ話をしていた。その時、急にからだが熱湯(ねっとう)を浴びたようであり、その瞬間、マグネシュームを何百倍も明るくしたような光が走った。爆風は、私を1メートル以上も吹きあげて、光が消えた瞬間、あたりは夕ぐれのように暗くなった。その時、私は、爆風に吹きあげられて知らない家の高窓をこわして、その窓から天井とともに落ちて、その家にいた人びとを驚かせた。

  その家では、急迫した戦況に疎開(そかい)をされるらしく、荷作り中であった。あの大きな爆発音に、荷作り中の老人夫婦は縄を持ったまま、ポカンとしておられた。高いところから飛び込んできた私を、老夫婦は不思議そうに眺めて、「あんた窓から飛び込んで、どうしなさったんの。」と、おばあさんが私にきいた。

  「今の音は、何の音じゃったんかいの。」と人の良さそうなおじいさんがきいた。

  「けがはないんかいの。」と、2人は心配そうな顔で、血色をなくした真青な私を見た。けれど私は、何をどういっていいのか、黙ってキョロキョロとあたりを見まわしていた。老人夫婦は親切に土間にあったこわれたイスを持って来てくれた。あたりは、見るかげもなくこわれて、足のふみ場もなかった。私は自分の姿を見ておどろいた。着たモンペが、さわる手に、紙のようにたわいなく破れた。

  私は手もとどかない窓から、かるく見知らぬ家に飛び込んでいた。私は何が何だかさっぱりわからず、返事のしようもなく、「どうなったんでしょうね。何か落ちたようですね。」といって、ぼんやりしてしまった。その年寄り夫婦が親切に裏口から比治山(ひじやま)に登るよう教えてくださった。

  「山に防空壕(ぼうくうごう)があるから、その中で、しばらく休んで帰られたほうがいいですよ。」おじいさんが、防空壕まで送ってくださった。

  私は何度も礼をのべて、防空壕の中にかけ込んだ。私といっしょだった勤労奉仕の人びとが、恐怖と驚愕(きょうがく)のいりまじった顔をしてうずくまっていた。みんな妙に黙り こくって、ぶるぶるふるえた。湿気と暗さの中をすかしてみると、目にうつったのは、5人ほどの女の人だった。奥の方に若い女の人が乳呑み児を抱いて、げくげくと悲しそうに泣いていた。真っ裸(まっぱだか)の男の子は死んでしるのか、びくとも動かなかった。

  「おかあさん助けて、おかあさん助けに来て。」とお題目のようにいっているおさげ髪の少女もいた。おかあさんのかわりに、勤労奉仕に来ていた少女だった。私とからだをくっつけて座っている40くらいの人は、ぼんやりした顔をして、小きざみにふるえていた。

  外は暗く、ひっきりなしにサイレンの音がきこえてきた。みんな妙にだまって、口をきかなかった。何をいってよいのか、ことばが見つからなかった。もはや人間の神経も限界をこえて、無神経になっていたのかも知れない。何時間か、また何分かわからなかったが、私はじっと動かなかった。からだは、ケガをしているのかいないのか、痛くもかゆくもなかった。

  ずたずたに引きさかれた神経の中で、家に残した子どものことが気にかかってきた。私は、晴信と賢二の名前を大きな声で叫ぶと、狂った人間のように壕をふらふらと飛び出していた。歩き出してわかったことだが、右足のひざ下が白い骨がみえるほど深くほぐれて、はいたズックの中に、血がヌラヌラと流れ込んだ。私はその右足を引きずって、わが家に向かって歩いた。山をおりると、目にはいる家々の壁は落ち、屋根は飛び、家とは名ばかり、柱が立っているだけの惨状であった。

  わが家も同様で、私はぼんやりとしてしまった。晴信も賢二もいなかった。近所の人に聞けば、私の家より100メートル先の祖母のところへ2人で行く途中、原爆のために家が崩れ、その下敷きになっていたのを助け出され、隣組の人が2人を背負って、救護所につれて行ってくださったとかで、2人はいなかった。「ケガはどんなでしょう。」と、私は急に張りつめた気がしぼんで、悲しさがこみあげてきた。「さあ、どんなでしょう。何しろたくさんの瓦が落ちてきたものですから。」と、となりの主人が気のどくそうにいわれた。

  あれだけ2人の子どもを思いながらたどりついた家だけれど、今は気の抜けた風船のように、たよりない気持になった。2人とも生きているということが、私の心に安心とつかれを一度に吹き出させたようだ。

  玄関の上り口の敷台(しきだい)に、息子2人の防空ずきんと救急袋が、2人分ならべておいてあった。きっと2人は空襲警報(くうしゅうけいほう)のあいだ、防空壕にはいっていて、解除になったので、祖母の家に行こうとしたのだろう。小さな2人が、どんなに心細かったことかと思えば、胸はえぐられるようにつらかった。国のためとはいえ、行かなければよかったと、私は腹だたしくなった。

  家の中は、足のふみ場もないほどだった。タンスは6畳をこして茶の間に飛び散っていた。血だらけの足を、ポンプの水で洗った。手のひらほどもぎ取られた右足の肉の跡に、重曹をたたき込み、浴衣(ゆかた)で作った包帯(ほうたい)でしっかり巻いた。どうして重曹などつけたのかわからない。焼けこげのモンペはぬいで、ほかのと着かえた。

  小学校が救護所になっていると教えてもらって、まず小学校に行ってみようと家を出た。小学校に行く途中、道端で死んでいる人を3人も見かけた。臆病(おくびょう)な私は、死んだ人のそばには近よることもできないのに、眠っている人を見ているようであった。もし2人の兄弟が死んでしまっていたらと、そればかりが気がかりであった。そのときは、私もいっしょに死のう。そう思ってやっと心をとりもどした。いつも通いなれた子どもの学校が、遠くに感じられた。

  足の傷がいたみ、また血が流れだした。ようやくたどりついた小学校は、死人ばかりが収容されていた。若いお巡りさんが、死体を見ながら何か書いていた。

  「ケガをした人は、どこでみていただけるのでしょう。」と私がたずねると、お巡りさんは、鉛筆の手を止めて、「兵器廠(へいきしょう)になっているはずですよ。」と親切に教えてくれた。出血のためと、子どもの見つからぬ心労で、頭がふらふらして、そこにすわってしまいそうになった。

  兵器廠の裏門は、小学校から約500メートルくらいはなれていた。小学校から兵器廠までの道は、れんこん畑である。小さなあぜ道を、ふらふらしながら歩いた。不思議なことには、その道では、人っ子1人とも会わなかった。静かで、私がこの世に1人とり残されたような寂しさであった。兵器廠にたどりついたとき私は、これが人間の姿なのかと呆然としてしまった。学徒動員の中学生が、何百いや何千ともいえないほど草の上にころがっていた。倉庫の陰から、うめきと泣き声が湧いてきた。私は恐ろしさと哀れさに、からだじゅう鳥肌になってきた。これが人間なのかと目を見張った。顔がはれあがって、目も鼻もない少年もいる。中学1年生か2年生くらいの少年ばかりである。肉親の者は、だれ1人としていない、かわいそうな少年たち。

  何くれとなく世話をしているのは、兵隊さんたちである。血まみれで、だれがだれやらわからない。私はこの中に、晴信や賢二がいるかも知れないと、大きな声で呼んでみた。足元にいる少年たちは、「水をください。水をください。」と水を欲しがった。あちらこちらから、焼けただれた顔の中の瞳がうつろに見開かれて、私に、だれもかれもが水を求めた。

  私の右手は、肩から手首まで大きく水ぶくれしてきて、ひどく痛んできた。

  「まってね。水をもらってあげるから。」歩き出そうとしていたとき、石油缶に縄をかけて、足早にやって来る兵隊さんを見つけた。私は水に違いないと思って、

  「兵隊さん、水をこの子どもたちにあげてください。」といったら、兵隊さんは私の顔を見ながら「これは、水ではないのです。油です。いちいち油をぬってあげられないので、このシャクで、からだに少しずつ油をたらしてあげるのです。」

  「へえ。」私はびっくりした声を出した。

  「ごめんなさい。私は水だとばかり思ったものですから。」兵隊さんは、勘ちがいした私に白い歯を見せて笑った

  私は、人のことどころではなかった。私は少年たちに何もしてあげられない自分を悲しみながら、兄弟を探して歩いた。ボロボロ涙が流れた。死んだ人がこの中にもあるだろう。まさに地獄だ。足の痛みが腰の上にまでせりあがってきた。2人の子どもが、こんなになっていたらどうしよう。どうしようと泣きながら歩いた。

  どうして勤労奉仕なんかに行ったんだろう。向かいの家にかわりに行ったのに、行かなかったら2人の息子を無事に守っていたかも知れない。そう思うと、いても立ってもいられない後悔に、からだの置場のないほど苦しんだ。子どもが見つからず、わが家に帰りついたとき、西の空は夕やみとともに真赤な火柱が大きく赤くふえていった。不幸中の幸か、私の住む段原(だんばら)地区は、比治山という小高い丘のために火を遮(さえぎ)ったので無事であった。

  私にも幸いのことがあった。主人は宇品(うじな)の方の会社にいて無事であった。子どもは2人とも生きていた。私は晴信と賢二を抱いて、「よかった、よかった。」と泣いた。うれし泣きであった。兄の方の晴信が、「ぼく、こんな恐ろしいところにいたくないよ。どこか山の中に行こうよ。」とつぶらな瞳をうるませてふるえていた。

  「賢二をケガさせて、ごめんね。」晴信のこのことばが、あの子の最後のことばになろうとは、身の知るよしもなかった。賢二は、その翌日、とうとういけなくなった。うわごとを口ばしり、ごろごろと転がって苦しんだ。あまり丈夫ではない賢二は、煙の消えるように主人の腕の中で死んでしまった。子どもの苦しさは、私の苦しさであった。

  「どうせ、おとうさんも、おかあさんも後から行くから、先に行って待っていろな。」

  主人は、賢二の冷たくなっていく手足をさすりながら男泣きに泣いた。私の父母が、私たちが代わってやりたいといって泣いてくれた。けれど父は、晴信が死んで6日目に、晴信や賢二たちのところに行ってしまった。爆心地近くに勤務していた会社内で被爆し、ケガ1つしないで帰って来た父だったのに・・・。

  私はその夜から熱は40度、焼けた皮膚がくずれてからだじゅうが痛み、うずき、残された自由は、ただ泣くだけだった。晴信は水をちょうだいとせがんだ。水をやると死ぬるという流言(りゅうげん)に、助けたいばかりに水をやらなかった。うわごとと熱にさいなまれながら、苦しむ晴信を看病してやれなくて、晴信もまた死んでしまった。私の意識は、限度を越えていた。失われようとする意識の中で晴信と賢二が現れては消えた。死ぬる子を引き止める何があるだろう。神も仏も、私にはなかった。

  何も悪いことをしたこともない私たち親子に、こんなむごいことが、運命とはいえ、なぜふりかかるのだろう。何の罪があったというのか。考えても考えてもわからない。ただ、2人の子どもを死なせて救いがあるとしたら、晴信も賢二も、父の腕に抱かれて息を引き取ったことであろう。

  戦争が、いかに悲惨であることか、今でも原爆の後遺症でなやむ人びとがたくさんある。きょう散る生命は、あすは自分を指しているのだと思えば、原爆の恐ろしさに身ぶるいがでる。私がいまさら、わめき、さわいだとしても、2人の幼い命は帰ってこない。生きているときから仲のよかった兄弟は、今でもきっと、ひっそりよりそっているだろう。今生きているとしたら、あの子たちのとしはいくつと、毎年、兄弟の年令を数えている悲しい母である。

  夢でもいい、かあさんに会いに来ておくれ、私はもう夢でしか、あの子たちに会えない。忘却のかなたに消えていく兄弟に安らかな眠りを、今はただ願うばかりである。

  天国のにいちゃんに送る手紙

  赤い色紙を張った流し灯ろうに火をつけて、そっと川面に流れる赤い火を合掌(がっしょう)しながら、涙で送る日が、またやって来ましたね。毎年の慣例になりましたが、あなたたちが生きていたらいくつだと、としばかり数えています。

  原爆のあのとき、にいちゃん(晴信)は国民学校の2年生でしたね。弟の賢二ちゃんとは大の仲よしで、1度だってけんかしないで、賢ちゃんのいうことは、無理でもよく聞いてやっていたので、賢ちゃんは、「にいちゃん、にいちゃん。」といって、にいちゃんによく、くっついて歩いていましたね。

  あの前夜、8月5日は呉(くれ)地方が大空襲でものすごい爆撃(ばくげき)でしたね。私の家から東南で、夜中じゅう火柱があがっていたのが、打ち上げ花火のように見えましたね。おとうさんが、仕事の都合で朝も帰って来なかったので、賢ちゃんは小さくて眠りましたが、にいちゃんとかあさんは、ふるえながら、暗がりで、いつでも逃げ出せるよう起きていましたね。

  かあさんが8月6日、建物疎開の勤労奉仕に出かけるとき、賢ちゃんは、まだ眠っていて、にいちゃんが門口まで送ってくれて、私が振り返ると手を振ってくれましたね。

  それから1時間あまりで、にいちゃんと賢ちゃんが、死ななければならないケガをするなんて。かあさんは大ヤケドをして、私たち母子には、神さまも仏さまもなかったわけです。

  戦争は、私たちの意志のあるなしにかかわらず、一部の人びとによって引きずられて、戦わされるものです。戦いの後に残されるものは、残酷さと空(むな)しさだけです。そんなとき、いちばん被害をこうむるのは、弱い女と子どもと老人なのです。戦争のために、最も大切なおとうさんを亡くした人もたくさんあります。その残された母子のみじめさは、どんなだったでしょう。戦争はなぜしなければならないのかと思います。

  食べる物のない戦いのさいちゅうで、肥料にする大豆カスや、にがい草だんごを食べたくもないのに、涙をこぼしながら、少しずつ口に入れてのみ込んでいたのが、今思えばかわいそうでなりません。いなかに疎開していたら、あんなにむごい目にあわなかったのにと、田舎に知り合いのない不運が残念でなりません。これも運命と思とはいえ、悲しいことです。

  かあさんが、勤労奉仕に出ていて、にいちゃんは賢ちゃんをつれて、心細かっただろうと思えば、胸のつぶれる思いでいっぱいです。死ぬ前、にいちゃんが、

  「かあさん、こんなこわいところにいたくないよ。どこか山の中に行こうよ、」といったのを忘れることができません。本当に、あんなことが起こるとわかっていたら、山の中でも、土の中でも、もぐったでしょう。地獄がこの世にあるとしたら、それは、あのときのことをいうのでしょう。地獄の業火(ごうか)に焼かれなければならない、私たちに何の罪があったのでしょう。兄ちゃんが天国に旅だって1週間もたたないうちに、孫たちと代わってやりたいと、涙をこぼしてくれたおじいちゃんも、兄ちゃんのところに行きました。今もまだ、原爆のために死ぬる人は後を絶ちません。

  やがていつの日か、かあさんも天国に行きますから、そのとき、心いくまで話し合いましょう。かあさんも、晴信ちゃんが死ぬるとき、もう半分死にかけていたので、別れもいえないでごめんなさい。

  この手紙は、泣きながら書いています。26年も過ぎた今日でも、やっぱりあの幼ない晴信さんと賢二ちゃんの、かわいらしい顔しか思い出せないのです。としとっていくこのごろは、しきりと、あなたたちのことばかり想います。戦争のない平和が、いつまでも続くよう、天国で、にいちゃんしっかり見守っていてください。

松柳 須磨子(広島市段原中町)記

被爆死
松柳 晴信(比治山国民学校2年生)




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