34.孫も逝って今はひとり

  昭和20年8月6日、警報(けいほう)が終わった空にはちり雲1つない朝8時、キチンと服装を整え、朱塗(しゅぬり)のお椀をランドセルのわきにつけ、「いってまいりまーすー。」と、いつもの大きな声で内玄関(うちげんかん)から出ようとした孫の「正」は、熊本の曽祖母(そうそぼ)(私の母)から送って来た 七島草(しっとうそう)の新しいぞうり(熊本の名産)がそろえてあるのを見て、「このぞうり、まだあったの?」と喜んで出て行きました。その日はちょうど、済美(せいび)では「明日は、おしるこをこしらえてあげるから、みなさん、お椀を持ってらっしゃい」と、石井先生がおっしゃったとかで、いたって甘いものが好きな子ですから、嬉しそうに楽しんで出かけました。

  そのあとで私は、掃き集めて焚(た)いた庭のゴミを、門のわきのちり箱に捨てに行きました。と同時に、あの射るような光!続いて、あのものすごい爆音!急いで開かれていた玄関内にとび込むと同時に、門内の黒板塀が倒れる。爆風のあおりで破れる窓ガラス、階段わきの壁の落ちる音。

  やがて気がつくと「正」は?とすぐさまに思われました。主人(正の祖父)も、前額部にケガをしておりましたので、私自身で「正」を迎えにと思い、万一、ケガでもしていたら背負うて帰るつもりで、主人のシゴキ帯を腰にまとい、近くの電車通り専売局の所まで出ますと、警戒(けいかい)している憲兵(けんぺい)の方に「どこへ?」ととがめられ、わけをはなし通過を頼むと、「学校の方では、きっと保護していてくださると思う。この修羅道(しゅらどう)は、とてもとても女では行かれないから、宅に帰って学校からの連絡をお待ちなさい。」と、頼んでも頼んでも行かせてくださいません。そのうちにも、血まみれの男女たち、グッタリとなった人びとを乗せた何台かのトラックが、次々に宇品(うじな)の方に列をなして走っております。

  しかたがないので、ともかくいちどは家に帰ってみたのですが、どうしても落ちついておられず、こんどは道をかえて、専売局の東の道を通り、比治山(ひじやま)橋を渡って電車通りへ出ました。道には電線の続いたままの電柱が倒れて、ブスブスと煙と火とに包まれ、路傍(ろぼう)の馬は、車をつけたまま倒れて死んでいます。

  白神社(しらかみしゃ)のあたりでは、電車も横倒しになり、車のそば、また近くの溝には、ころがり込んだ人、あぐらをかいた人びとが、頭の毛もなくて男とも女とも見えぬ形相(ぎょうそう)で「水、水!」「おかあさん!」と枯れた声でよんでいて、そのありさまは、まだ見ぬ地獄とやらもこのようなのかと、身の毛もよだち、心もからになりました。あまりのおそろしさに、ちょうど通りかかった兵隊さんに頼んで、済美校まで連れていっていただきました。

  西練兵場(にしれんぺいじょう)の東方にある済美学校に着いてみれば、校舎はペッタリとはうようになって、煙がしきりに出ておりました。「正は、あの下になってはいないか。または逃げることができたのか?」と、ふと見れば、校庭にはちょうど「正」くらいの年ごろの方が倒れて、無惨な死に方をしておられました。しめておられるバンドが「正」のとちがっているので人ちがいとわかり、ただ手を合わせて心から合掌(がっしょう)しました。

  そこへ偕行社(かいこうしゃ)の中から1人の兵隊さんが出て来て、「だれをさがしているのか。」と聞かれて、「かくかく。」と申しますと、「磯部正君なら、昨日までこの校庭で鬼ごっこなどしてよく遊んだのですが、自分はちょうど昨日の夕方から山の方へ炭焼きにいって、きょう帰って来ました。」といって、いっしょにさがしてくださいましたが、それらしい影も見えませんでした。そのうちに、日はしだいに西に傾いて暮れかけていくので、その兵隊さんが、「わかりしだい連絡しますから、ともかく、きょうはお帰りなさい。」と親切なことばに、立ち去りかねた心を残して、スゴスゴと半分ばかり心に穴があいたような気持ちで帰りました。

  「夜に空襲があるかも知れないので家を出て避難(ひなん)しろ。」という訓令が出ましたけれど、「もしも帰って来るならば」との心から立ち去りかねておりました。しかし、夜もふけてはとても帰らないだろうと、いったんは主人と2人、近くの畑に避難しましたが、とうとう夜半ごろにはまた家に戻り、ひたすら待っておりました。

  明けて7日の朝10時ごろ、町内の人びとが大きな声で、「磯部の坊ちゃんが帰って来られた。」という知らせに、主人も私もハダシでとび出しました。みると「正」は、制帽をかぶったままランドセルや他のものは持たず、胸には兵隊さんにもらったという乾パン袋2つを抱いていました。すぐさま抱きかかえて足を洗ってやり、床につかせました。

  からだもわりに元気で、傷らしいものもなく、ただ電車が急停車したとき、額にかすりきずを受けたとのことでした。ホットしながら(原子爆弾などのことは夢にもしらず)このつかれを早くとってやりたいと思い、かかりつけのお医者さまにお願いして来てもらい、手当てとさしずをしていただき、「額のケガには、赤チンを塗っておきなさい。」とのことでした。そこで本人も心が落ちつき、私たちもいくらか安心しながら、私はあと片付けや何かと忙しくしていました。主人は「正」につきっきりで、かねて読書好きの子でしたので、買い集めておいた本をあれこれと読んできかせ、「正」もおとなしく聞いておりますので、私もあれこれと働いては、夜は早く「正」のそばに休んですごしました。

  そのうち額の傷はすぐに治りましたが、食欲はなく、しだいに衰弱(すいじゃく)していきました。それでも心は落ちついていて、いろいろと話をしてくれました

  原爆にあったのは白神社あたりで、ちょうど電車が急停車したとき、同じ車内の人たちについて走り、泉邸(せんてい)のうらの草原までのがれて、そこで一同が休みました。夕方になって、「僕は帰ります。」といったら、白島(はくしま)の方らしい人が、「おとなのおじさんたちさえ帰るのはむずかしいのに、坊ちゃんが皆実町(みなみまち)まで1人では帰れないから、今夜はここで泊まりなさい。」といわれて、配給のおむすびやトウモロコシなどを取って来てくださったそうです。それで1夜をここで過ごし、帰りは電車路をつたって来たと話してくれました。その白島の方は、お名前もわからず、お礼も申しあげることができないで、今日までも心ならずも過ごしておりますが、あるいは、もうお亡くなりになったかとも思い、もし、ご生存ならば、何とかしてお礼を申したいと願っております。

  「正」は、このような日が続きました。ところが、13日の夜中の3時に水道の水が出ると通知して来ましたのを覚えていて、時計が3時を打ちましたら、「おばあ様、3時になったから、もう水が出るようになったか、みてごらん。」といいました。そのときまでの意識もはっきりしておりましたが、そのあと1時間くらいたったとき、あわただしく、「おばあ様、物置小屋の炭俵(すみだわら)の上のお釜の蓋(かまのふた)が落ちるから上げてください。」というのです。そのとき私は、「もはや意識も混濁(こんだく)したか」と思い、「さてはさては。」と覚悟しました。朝5時すぎに主人が、「正、お水をあげようか。」といいますと、「今はいらない。」といい、かれこれして眠るようにして息を引きとりました。

  なきがらには、新しい純白の服(かねての着替えに作っておいた)を着せ、小さな念珠(ねんじゅ)と潜水艦(せんすいかん)の本を2冊、その他すきだった書物を3冊入れました。ひつぎの上には、済美の制帽を載せて、主人と私、そして町内の方々とともに、専売公社内の仮葬場に運びました。そこで、兵隊さん方の手あつい取りあつかいをうけて、翌15日、お骨を受け取って帰りました。そのときちょうど、玉音放送(ぎょくおんほうそう)をラジオできき、涙とともに言い知れない1日を過ごしました。

  「正」の父は、潜水艦長として出動し、東太平洋にて戦死、母は2度目の出産のおり、日だち悪くして亡くなり、ただ1人「正」を、家をつぐべき子として、主人とともにだいじに育ててきました。8歳と9ヶ月でこの世を去ろうとは、少しも考えませんでした。「正」は、人さまにじまんするほどの子ではありませんでしたが、読書が好きで童話ばかりでなく、まとまったもの(特に歴史に関するもの)を読んで、自分なりの感想を私どもに聞かせておりました。日記も、原爆の前日5日まで書きとめておりました。

  そうして今日では、主人も亡くなり、ただ私1人が亡くなったものたちを弔(とむら)うべく、毎日人さまのおためにもならず、相すまぬことながら、ただ平らな池の水のような静かな日々を送っています。

磯部 政(広島市西霞町)記

被爆死
磯部 正(済美学校3年生)




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