33.黒いひまわり

  ピカッ!と何か不気味な光が、と思う間に死の灰で昼とも夜とも見分けがつかないようになり、いつか別の世界にいるような気がしました。あら、ひまわりが黒い。私の錯覚かしら、それとも幻想かしらと考えても、やはり黒く見える。それから悲惨(ひさん)な一生が始まったような気がします。

  このたび、原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑が建立(こんりゅう)されまして、あの幼い何の罪もないに原爆死の学童らの碑ができあがって、お参りだけさせてもらおうと思い、あの子のために、老眼鏡をたよりに書き出しました。

  戦前から交際のあった人に出逢いますと、たいていの方が、「あのかわいいお嬢さんは。」とお尋ねになります。お答えするのにもう、いやになるほど、何人も、何十人も、何百人も数え知れないほど、あの子のお友だちの父兄や私の知人たちから聞き、話されるのです。たいていそんな方に限って、自分のお子様や肉親を亡くされておられるようでした。

  「あの子は原爆で亡くなりました。もう○○歳です」と、その時々の年代にあった歳をお答えします。亡くなった子どもの歳をかぞえる親バカの1人です。かえすすべもないのに、今年でもう数え歳33歳の、女の人でしたら厄年(やくどし)かしら。母親として、帯の1本でも買って贈ることでしょうに、ささやかながら一家族の主婦として、子どもの2〜3人もつれて、少々教育ママぶりに心を配っているころかしらなどと、思いめぐらせばきりのないことで、どうにもならないはずですのに・・・。原爆投下により、あの子を亡くした時の若い母親の自分の歳よりか、歳を重ねているはずです。

  自身も被爆して、その尾を今もって引き、弱いからだに心身ともに悩まされることの多い現在ですが、どうにかここまで、あの子のぶんまで生きて来られました。

  投下後、私と数メートル離れた前庭のニワトリ小屋で、後ろ向きになってニワトリにエサを与えておりました。たいへん気だてのやさしい、特に動物の好きな子どもでした。ピカピカッと異様に光った時には、もう、首のところにヤケドを負っていました。直射光を受けたのです。原爆投下直後に、あの子を抱きかかえて、「ああ、よかったよかった。これだけのヤケドですんで、生命がとり止められて。」とすぐに思いましたものの、ヤケドだけではなかったのです。まさか、あのいまわしい放射能が、その幼い何の罪もない子どもの体内をおかすとは、つゆほども知りませんで、そっと安どしておりましたのに・・・。

  当時、子どもは済美(せいび)学校1年生で、あの子は、その光を見たとたんに、私のからだにしっかりとしがみつきながら、思わず、「おとうちゃん。」といいました。主人は職業軍人でしたから、平素は戦地から戦地で、ほとんどあの子と過ごすこともなかったし、音信不通で遠く南方ラバールにおりました。だから子どもとしても、幼いながらも肉親との再会など、夢にも見られないものとすっかり覚悟を決め、あきらめておりました。そして、ときどき世界地図を拡げて、その中心部にあるラバールの地を指さして、「ここね。」とはっきり教えてくれたりしておりました。軍人の妻子は、女々(めめ)しい行動は禁じられており、戦争も激しくなるおりから、平素は何のことも口に出さなかったのです。母の私を親として、母1人子1人、ともどもにその苦しい時代をおくり、私としては、その子の養育を生きがいとして、それと戦勝を信じて生き抜いておりました。

  子どもが済美の幼稚園から学校に入学して、かわいいモンペ姿に、上衣は私の女学校時代の制服を更生して、赤い線を入れた済美校制服に仕立てなおしたものを着て、希望をもって通学しておりました。私がこの学校を選んで入学させたのも、子どもと同じ境遇の軍人家庭の子弟が多かったので、少しでもそのきびしさを理解してくれることと思ったからでした。

  教室での先生のお話も、時代が時代ですから、物資不足のきびしいときの教育です。まず第一に、最も叫ばれたのは節米(せつまい)です。学校から帰りますと、先生から教えを受けたことばをそのままよく話してくれました。

  「ごはんは、2つ以上、食べられません。」

  「おべんとうは、大豆ごはんと、じゃがいもです。」

  と、先生の教えどおりに、大豆のいっぱいはいった主食に、じゃがいもを、私なりにあれこれと考え出して、せいいっぱい心づくしのおべんとうを持って行かせたものです。そのような物資不足などの中でも、心を通わせる豊かな性格だけは忘れないようにと念じて、あれでも主人が生きて戦地より無事に帰還できるかも知れないと、月に願い、星に祈って、子どもと2人でよく空を見あげて話しておりました。

  そんなにした子どもでしたのに、父と子の絆(きずな)が断ち切られたのです。血縁とは不思議なものです。原爆が投下されてより、もうこの世の中に生命は消えてしまう予感が、あの幼い子どもにわかっていたのでしょう。幾千里遠く離れたラバールの「おとうちゃんに会いたいね。」というのが1番始めに出たことばです。もう、本当にかわいそうでした。

  あのいまわしい原爆の正体を、また、放射能の悪い悪い病いを全く知らなかった私には、ヤケドだけで人命はとりとめられたと、簡単に考えて、あの子を私の周囲の肉親の看病にも手伝わせたり、長い炎天下を、後を断たない敵機から逃れるため、長い道を歩かせたりしました。

  やけどにはマーキュロなどを塗ったり、「もうすぐ治るよ。」と励ましながら、その傷口の治療といっても、せいぜい僅(わず)かのマーキュロの配給で少しもらって来ては、これでよくなるからと信じて、治療に当たっていました。ところが、8月17日から急に大量の血便が、洗面器にいっぱいになるほど何回も出てきました。1回、2回とその苦しみも重ねるうちに、みるみる死相(しそう)が現れてきました。

  何と無残な事実、私はもう、気も狂わんばかりでした。真夜中の午前2時、3時でも一向にかまいなく心臓さえ丈夫であれば、それでも治ると思い直して、いっしょうけんめい無我夢中(むがむちゅう)です。素人(しろうと)治療のせいいっぱいの力なのです。子どもを助けたい一心でした。己斐(こい)国民学校の足洗い場のポンプの水をいくどもいくどもくみ替えて、冷たい水をタオルにしめらせて、小さな呼吸のはげしい胸に当ててやりました。

  このポンプのまわりには、死人が水を求めて来ては集って、ついに息絶えて亡くなっておられました。中には、赤ちゃんが、もうすでに亡くなった母親の乳房を求めて、やはり息絶えている有様を見たとき、ちょうど慈母観音(じぼかんのん)の姿を見たようで、悲しみを越えて仏様になられた罪なき人々よ、安らかに、と、御念仏を唱えながら水汲みもしました。小学校のあちこちは、月の光をたよりに看護する人がいっぱいで、水を求め、傷ついた全身のいたみに泣き叫ぶ人、次から次へと死人に直面する肉親の、決別の泣き悲しむ声が、次々とたえまなく胸をつきさすようでした。

  ああこれが、この世の生き地獄(いきじごく)かと、悲しみよりか、なぜこんな目にあわなければならないのかと、いかりの念が燃えあがりました。これがもし私1人だったら、もうとっくに気が狂っているだろうと思いました。私が幼き日々に祖母につれられてお墓参りして、お寺の天井の桝目(ますめ)にかかれていた地獄と極楽(ごくらく)の絵、あの地獄の悲惨な絵画よりか、現実の方が苦悩の大きく深いことを感じました。

  しかし、恐ろしいとか、つらいとかいってはおられません。真夜中でも死体の人の手や足をかき分けながら、1本の小さいローソクの灯を唯一のたよりにして、廊下をわたり、あの子の看護に全力をつくさなければなりません。死なせたくない、死なせたくない、と神に祈り、仏に念じ、すくいを求めました。しかし、その小さなローソクの灯のように、幼い子どもの生命は、一刻一刻と死に近づいてゆきます。最後まで、私は「死」ということは考えなかったのです。血便が止まればまた元気になれる、40度近い熱が下がれば回復すると信じて、リュックサックの底に残っているわずかの医薬品を取り出して、私だけの思考の智恵を全部引き出してみて、解熱剤(げねつざい)をあたえたり、また下痢止めを服用させたりしました。でも、放射能といういまわしい病原には勝てません。ついに、ついに亡くなりました。

  当日、済美学校1年生は、8月6日は登校日でしたが、あまりにも幼く低学年ですし、また遠いので、学校へは行かなくてもいいよ、といっておりました。それがせめてもの幸いで、私の手によって死の最後もみとりました。また、死体はあわれにも、コモに包んで己斐の山で焼くことになりましたが、それでも小さい遺骨を、この母の手でひろいあげることもできました。せめてそれだけでも、心の休まる思いがします。

  済美学校の1年生はそのとき、原爆のためにあのかわいらしい線のついた制服姿で、幼い生命を校門の前で重なり合うようにして、8時15分直後に生命が断っていたと、あとで聞きました。

  文章がもとにもどりますが、私の子どもがいよいよ死に直面したとき、私があのもみじのような小さい柔らかい手を両方合わせて、赤い数珠(じゅず)をかけてやりまして、「南無阿弥陀仏(まむあみだぶつ)、南無阿弥陀仏」と御念仏を唱えてやり、いよいよ最後のことばを、涙ながらに諭してやりました。あのいたいけな子どもです。悟り得られるはずもないのでしょう。「かあちゃん、かあちゃん」と私の姿を求め、別れるのがいやいやと、そうした哀しいことばもかすかに、40度の熱にうなされながら、生死の境を迷っていました。1年生の学級の数多い仲のよいお友だちの名前をはっきり呼んでみたり、先生の名前を口ずさんでみたり、ままごと遊びの美しい花を夢に見たり、その花は、たしか黒いひまわりではなくて、黄色の花びらをつけた、平和であったときの大きなひまわりのあでやかな色でしたでしょう。

  死にたくない、死にたくないと精いっぱい発言するたびに、私の胸はさけんばかりです。そのそばで、私の1番下の弟がいっしょに看病してくれておりましたが、この弟はもうすでに親、姉たちと、肉親を死亡させ、自分も被爆し、たった1人残された姉の私を親と思っていました。弟は二中の1年生で、男の子ながらあまりの悲しみに、「香澄ちゃんまで死んだりして。」と泣き出しました。その弟が私のことを、「ねえちゃん、気が狂うのではないかと思った。」とあとあと申しました。

  あれから26年、1日として、その悲惨な悲しいつらい思い出は、忘れることができません。

  とうろうに 語りつくせし 母悲し

  彼岸とどけよ 亡き子のもとに(8月6日とうろうながしにて)

  なぜ、なぜ、この罪のない神様のような幼い子どもを、こんなにしてあの世に送らなければならないのですか。私には、平和記念日よりも、その式典よりも、静かにだれもいないところでじっと耐えて合掌することの方が救われるのです。南無を唱え、合掌する気持の心をいやして、ひとり勝手な慰めに浸(ひた)っておりましたが、このたび記念の碑のできあがった喜び、今年こそ、あの子もその一員とされていることでしょうから、お参りさせていただきます。そして、今までの心狭き自分にも恥じて、命の限りお供養(くよう)を忘れないよう、改めて心に誓いました。

  黒いひまわりを見た一瞬より、苦しい辛いできごとの多い一生でした。あまりにも26年間を長い長い月日ですのに無気力に送ったことを後悔し、残された一生はつとめて強く、有意義に送らなければ申しわけない。無理に尊い生命をうばわれた罪ない人々のためにも、平和ほどありがたいものはないと、小さき私の力でも伝えなければならないと思いました。そうして、これからの若い人々へ責任をもって、教育することだと思います。

  実のところ、その後、主人も無事帰還し、戦後にあの子の妹と弟が生まれ、それぞれ成長しましたが、時代の流れはやはり人の心も変えます。戦争や原爆を知らない子どもたちには、やはり子どもの目の前のことしか考えられないのでしょう。しかし、心のどこかで亡くなったあの子のことは忘れずに、これからはまた、あの碑にお参りするようにいっております。息子もYMCAで受験勉強し、海へ山へ遊ぶ話の若人だけど、私が、「そのYMCAは、おねえちゃんが毎日通っていた懐かしい学校よ。」と話すと「そうか。」と考えこみ、私の話も聞いてくれます。争うことの悲しいできごとは、この世から無くさなければいけません。くり返しくり返し伝えなければいけません。理由はどうあろうとも、いさかいはどんな場合でもみにくいものです。

  きょうは記念日、46年8月6日、私は大豆ごはんの代わりに銀めしのおにぎりと、じゃがいもの代わりにゆでたまごと、ミルクとお砂糖のはいったお菓子を少しずつふところにしのばせて持って行って、お供えしたい気持でいっぱいです。

岡原 清子(広島市本川町)記

被爆死
岡原 香澄(済美学校1年生)




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