21.1ヶ月後に逝った新治

  三篠(みささ)国民学校6年生だった弟の新治は、その日の朝、友だち3人と学校へ行く途中、山手町(やまてちょう)あたりにあったと思われる安芸高女(あきこうじょ)のそばを通っていました。そのとき、あの爆風にあい、山手川へふきとばされました。そして、耳がちぎれてなくなり、目も片方やられて白くつぶれてしまいました。それでも、南三篠の自宅に帰ってきて、全壊した家の下じきになっていた母親や弟をひっぱり出して助けました。新治の姉(私の妹)は市女(いちじょ)へ通っていて、行方しれずのままなくなったと思われます。

  新治は、からだじゅう熱線によって焼かれ、受持の今井先生のお兄さんが開業しておられた安佐郡(あさぐん)緑井町(みどりいちょう)の今井病院でおせわになり、私がずっとつきそって看病しました。最後ごろは、頬に大きな穴があき、外から歯が見えるようになり、苦しみに苦しんで9月17日に死んでゆきました。でも、今井病院では手あつく治療していただき、先生は棺桶(かんおけ)まで作ってくださったのに、15〜6年前にやはり原爆症で死なれました。

  いなかに親せきでもあれば、疎開(そかい)でもしていたのでしょうが、それがくやまれてなりません。私は、古江(ふるえ)にあった三菱の事務所へ出ていたので助かりましたが、・・・。父もその後死亡し、2人の弟と妹をなくして、いま生きておれば、それぞれりっぱな父親や母親になっていると思うと、何といってよいかわかりません。

土井フサ子(広島市東観音町)記

被爆死
山肩新治(三篠国民学校6年生)