29.二度と起こしてはならない地獄図絵

  昭和20年8月6日午前8時15分、いま思い出しても、あまりにも悲惨(ひさん)なゾッとするような原子爆弾が広島に投下された。

  当時、真佐子は大芝国民学校6年在学中で、まだ授業開始前なので、校庭で友だちと遊んでいた。ピカッと光った瞬間、真佐子は手首と足にヤケドを負い、無我夢中で家まで帰って来た。母はさっそくヤケドの手当てをし、このていどのヤケドなら大事にもなるまいと思い、市の中央部はすでに大火となっており、また第2の爆弾が投下されるというので近所の人たちといっしょに長束(ながつか)の方へ避難した。

  私は当時、広島電信局に勤務していたが、8月1日から8月15日までは、宇品(うじな)の運輸部構内にあった大本営(だいほんえい)直属の陸軍無線通信隊へ逓信省(ていしんしょう)からの派遣員として勤務していた。当日は、ちょうど宿直明けで、日勤者と交替して宇品山の洞窟(どうくつ)内にあった通信隊を出て帰途についた。(運輸部構内にあった通信隊は、空襲(くうしゅう)がはげしくなったので宇品山の洞窟内に移転していた。)宇品の終点から電車に乗り、旧広島高等学校(現広大付属高校)前でピカッと光ったものを感じた。自分のことはまだまだ書きたいけれども、主文に反するのでこれくらいに止めて、とにかく家に着いたのが午後5時ごろであった。

  ところが、自分の家はもちろんのこと、並びの家も丸焼けで、家族も近所の人もだれもいない焼野原となっていた。しばし呆然(ぼうぜん)としていると、家族や近所の人が帰ってきた。家内は、真佐子を大八車(だいはちぐるま)に乗せて押しながら帰ってきた。さっそく真佐子の負傷のようすをみると、手首と足にヤケドはしていたが、このくらいならまず大丈夫と思い、さしむき今晩から寝る場所もないので、焼けあとから焼け残りの柱やトタンなどで、応急のバラック・掘立小屋を造った。

  翌日、家内が真佐子のヤケドの手当てをしていると、頭の髪の中に何か白いものが見えるというので、髪をよくかき分けてみると、セメント瓦の破片が頭に突き刺さっていることがわかった。爆風で学校のセメント瓦が頭に落下して突きさった。さっそく、大芝国民学校が仮救護所になっていたので背負って行き、診察してもらおうとした。しかし、先生は1人もおらず、ただ少数の看護婦さんが、何百人とも知れぬ負傷者の手当てをしているような状態で、どうにもならなかった。 軍医さんが2〜3日後に来られるというので、それまで待つことにした。

  学校に寝泊りしながらも、毎日のように空襲警報が発令され、そのたびに真佐子を背負いながら、校庭の防空壕に避難するような状態であった。また、負傷者の中には、つい先ほどまでは話をしていたのに静かになったと思ったら死亡していたり、生身(なまみ)の背中にウジがわいたりしていた人も多数見られた。

  8月12日、ようやく応援の軍医がこられたのでさっそく診てもらったら、このセメントの破片はそうとう深くはいりこんでいるので、抜き去っても、あとになって脳膜炎(のうまくえん)を起こすかも知れないとのことであったが、とにかく摘出(てきしゅつ)してもらった。手術後2〜3日は経過がよく元気であったが、16日ごろより首に紫の斑点が、歯からは血が出るようになった。意識もだんだんわからなくなり、遂に8月21日に12歳という若さでこの世を去った。

  思えば原子爆弾というような科学兵器は、戦闘員、非戦闘員の区別なく全人類を滅ぼす殺人兵器であり、このような悲惨(ひさん)なまさに地獄図絵を2度と起こしてはならないことを、つくづくと感じるものである。

吉田 朝明 (佐伯郡五日市町) 記

被爆死
吉田 真佐子 (大芝国民学校6年生)