24.姉、梶矢文子のこと

  姉の文子と私が被爆したのは、広島駅構内の西端から100メートルも来た所の分教場(ぶんきょうじょう)で、今の回生病院のちょうど向い側になります。

  当時、姉(文子)は国民学校初等科3年生、わたしが1年生でした。空襲(くうしゅう)が激しくなり、もう荒神(こうじん)学校へも行けぬということで、私の家から200メートルほど先に開かれた分校――教室代わりの民家が(中西宅――イモトといわれる先生が教えられていたそうです)被爆場所です。当時は疎開というものがあり、姉も20年4月にいったん母の里である山県郡(やまがたぐん)大朝町(おおあさちょう)に疎開し、新庄(しんじょう)小学校に通っていたのだそうですが、7月の中ごろ、母が夏の着替えを持っていくと、帰るといって泣きじゃくり、母にしがみつき、バスに乗ろうとしてもまだ手をはなさないので、母も、「死ぬのなら、この子といっしょに。」と覚悟を決めてつれて帰ったのだそうです。

  8月3日に、新庄の祖母が死んだという電報が入りました。当時、証明書がなければバスにも乗れなかったそうで、父がそのために半日近くも動き回り、やっと3日の夕刻から、紙屋町(かみやちょう)のバス停の列に並んだのだそうです。はじめは姉もつれて行くつもりでいっしょに行ったのに、どうしても許可がとれず、けっきょく、年少の私だけにしか許可がおりなかったのだそうです。3日の夕刻から並んで、やっと順がまわってきたのが4日の2時過ぎ、新庄に着いたときには、もう葬儀(そうぎ)も終わっていたということです。

  その日は泊って、5日に納骨し、5日の晩も泊っていくように強くすすめられたのを、姉(当時10歳)を残してきているからとふりきり、広島に着いたのが5日の夜の9時近くだったということです。あの日、「姉もいっしょに行っておれば、もちろん5日の夜も泊っている。」と両親は言います。家に着いたとき、姉はひとりで寝ていたそうです。

  あくる日――6日の朝、空襲も解除になったということで分校に行かせることにし、私たちを母は見送ったわけです。8時15分という時刻は、ちょうど朝の清掃時間になっていて、姉と私は組になって玄関から奥へ通じる廊下(ろうか)をふく割り当てになっていたそうです。確かに、玄関の上がり口で、雑巾(ぞうきん)を動かしている姉の姿を思いおこすことができます。閃光(せんこう)の一瞬は、忘れることができません。わたしは玄関で下敷きになりました。壁をやぶり、柱のすき間からはい出して、とにかく牛田(うした)の山中に逃げのびているのです。

  ところが、姉の死体を父が発見したのは、その家の奥まったところにあった台所だったそうです。柱が胸の上に落ちての即死で、けがも出血もない、非常に静かな死に顔だったそうです。口もとにほほえみさえあったそうで、今でも母は、「何をおもい出したもんやら、あの子は心のやさしい子じゃったから」と、そのことを言って涙ぐみます。父は、姉の死体を出し終わると、すぐ私の死体を求めたそうです。かわらや天井を破ってはのぞき込むうちに、火がまわってきて、ついには炎の熱で耐えられなくなり、その場を立ち去ったそうです。

  わたしが父母と再会したのは、6日の7時過ぎでした。隣家の福馬さんという人に避難先で出あい、夕刻になって東練兵場(れんぺいじょう)に連れ帰られたのです。軍艦(ぐんかん)山と呼んでいた丘のふもとに、無事な父と(当時町内の防衛隊長をしていたそうで、無事であったゆえに食糧の世話から救助、死体の確認から処理までと動きまわり、ひどいおう吐と下痢になり、歯まで抜け落ちてしまったということです)父のそばには、姉の死体が静かに寝いっているように横たわっていました。そして、からだじゅう包帯(ほうたい)を巻き、その包帯にもこぼれるほど血がにじんでいる母が(爆風でこっぱみじんになったガラス50以上も体内に刺さり込んでいたのです)ひざを抱え込むような姿で、死体の横にじっとうずくまっていました。南側に向かって市の中央部が、まっかに燃え上がっていました。被爆のあの瞬間、わたしが玄関近くにおり、姉が奥まった台所で即死したことを、わたしは父にこう説明したそうです。

  「朝の掃除で雑巾がけをしていて、バケツの水がよごれた。わたしがかえに行くべきなのを、いやがって姉に行かせた。姉はバケツをさげて台所まで行き、わたしが玄関近くにそのまま残っていた。・・・」

  あのとき、わたしがバケツの水をかえに行っていたら、姉の死と私の生とは逆になっていたかも知れない。きっと入れかわっていたでしょう。わたしは、そのくらいの子どもを見るとき、感慨にひたることがあります。母もそのときのままの姉の姿が心の中に生き続けているらしく、3年生ぐらいのおかっぱ頭をみると、ふと立ち止まってしまう事があります。

  昨年、25年めでも、8月6日には泣いてしまったそうです。今年、26年めでも、またきっと、母は泣いてしまうでしょう。

梶矢 文昭(広島市大須賀町)記

被爆死
梶矢 文子(荒神国民学校3年生)