22.やっとさがしあてたのに

  主人が大東亜戦争(だいとうあせんそう)ぼっ発直後、戦地に行き、半年目には戦死をいたしました。その後、兄嫁も3人目の男の子を生み、7カ月目に他界し、兄も老いた母と子ども3人を残して召集になり、出て行きました。私も、母と兄の子ども3人、私の子ども2人と食糧難の時代を苦しいながら過ごしてきました。

  忘れもしない8月6日は、昭和町(しょうわまち)の住居が建物疎開(たてものそかい)にあい、母と下の2人の子どもを母の里に疎開さして、観音町(かんおんまち)に転居して1週間目のことでした。その日は空襲警報(くうしゅうけいほう)解除になり、甥(おい)は学校に行き、私たちも2階にあがるとき、川岸ですので見れば、早くから筏(いかだ)に乗って息子が遊んでいました。きょうは早くから川で遊んでいるなと思いましたが、あのような事態が起るとは夢にも思わないので2階にあがり、すわったと同時に閃光(せんこう)にあい、家の下敷きになりました。娘に助けられて外に出て見れば、今まで澄んでいた川も一面真黒で、1寸さきも見えない状態です。

  息子の姿も見えず、その場を立ち去りがたく思いましたが、あちらこちらから火の手があがりますので、娘と観音橋のたもとまで逃げました。みなさんは江波(えば)方面に向けて逃げておられましたが、その場を去りがたく川におりて見れば、小舟が1艘(そう)つないでありましたので、その舟に乗り、中ほどまで行きますと、向こうから来る小舟にたくさんの人が乗っていて、私たちの舟と2メートル離れたところで、「おかあちゃん。」といって息子が川に飛び込んで泳いできました。そのときの喜びはなんと申してよいやら、よく生きていてくれたと神仏にお礼を申しました。だけど、助けてあげて見れば、その変わりよう。全身ヤケドで、川に飛び込んだので1皮きれいになく、ただ、フンドシのところだけ皮が残っていました。

  岸辺にあがり休んでいると、「観音の中学に医者がいるからそこまで行きなさい。」といわれましたが、全身一皮むけているので、おぶってやることも抱いてやることもできず、息子の手と私の手と合わせて、1足歩いては休み、1足歩いては休み、中学へたどりつくまでに3時間あまりもかかりました。見てもらったところで、 赤チンキをつけてもらっただけで、それでも手当てしてもらったと思って嬉しうございました。私の一念でも死なせてなるものかと思いましたが、私の願いもむなしく、明7日亡くなりました。

  甥も学徒動員で行先不明、私も兄が帰ってあわす顔がないと、いろいろ収容所をさがしてわかったことは、その日に己斐(こい)の収容所で死んだということでした。

  主人も息子もみな戦争のために亡くなり、私もいくど死んでしまいたいと思ったことでしょう。戦争さえなければと、なんど戦争を呪(のろ)いましたやら。あのいまわしい思い出は、私の生命のある限りかなしい思い出となることでしょう。

  合掌(がっしょう)

河野照子(広島市牛田旭)記

被爆死
井石 茂(竹屋国民学校5年生)