28.しんぼう強かったアーちゃん

  昭和20年8月6日午前8時15分、広島に人類史上忘れられない原子爆弾投下。アーちゃん、あなたは9歳、3歳の尚子、それにとうとう行方不明となった祖母と、いちどに私の家で3人を奪われてしまいました、あれから26年たった今も、私どもにはあのときの悲惨(ひさん)な状態は、筆や口でいい表わすことはできません。見た人だけにわかるというより、知っているといった方がいいでしょう。

  アーちゃんの思い出は、いろいろありますね。大阪で生まれ、2年保育で高台幼稚園へ行き1日も休むことなくハシカのときも登園(とうえん)して、小使さんにつれられて帰って来たこと。卒園(そつえん)のとき、皆勤賞(かいきんしょう)をいただいて、廻れ左をしてヒヤットさせたあなた。何でもいちど自分がいいだすと、叱られてもいい通す人でした。空襲(くうしゅう)下に大阪駅で、おとうちゃんのご用であなたは2時間も1人で荷物の番をしたことなど。

  20年4月、兄の健は大手町国民学校4年生で、庄原(しょうばら)の山之内北村国民学校に疎開(そかい)。あなた方2年生以下は残され、授業もろくろくできないので、おとうちゃんの仕事の残務整理(ざんむせいり)のため2週間ほど大阪につれて行き、8月4日に広島に帰って来て、5日は安芸郡(あきぐん)矢野町(やのちょう)の祖母の所に行き、夕方無理をして広島に帰りました。

  6日の早朝、いつもならどこへ行くにもいっしょだったのに、あの日に限って、今まで私のからだから離したことのない尚子とあなたを祖父母にあずけ、芸備線(げいびせん)午前7時45分発の列車で、志和口(しわぐち)の親戚に疎開(そかい)していた少々の荷物を取りに行った後におきた大空襲でした。帰って来る途中、矢口(やぐち)駅で、はじめての罹災列車(りさいれっしゃ)に会い、ヤケドやケガをしていらっしゃる人々にそのときの様子を聞くと、「黄色な光線が来たと思ったら、自分はヤケドし、3人いたまん中の者は死んだ。」と話してくれました。私どもが大阪で体験した焼夷弾(しょういだん)とは全く異なった爆弾で、不思議で不思議でなりませんでした。

  やっと焼け跡にたどりついたときは夕暮で、人の顔もハッキリしない時刻でした。その晩は、今の平和大橋東詰(ひがしづめ)の広場で20人くらいの人といっしょに夜を明かしましたが、「水、水。」「寒いよう、寒いよう。」と叫ぶ声が1晩中し、その声がしなくなったとき、その人たちは死んでいました。

  あくる朝、避難していた近所の人から、母が吉島の中国塗料の所にいて、「小さい女の子はもう亡くなっているから、名札を立てておいてください。上の子は、私が逃げるときについて来なかったので、キット近所で死んでいると思うので、近所をさがすように。」とのことづてでした。「母は。」と聞きましたら、「奥様は、全身ひどいやけどなので、夜つゆにあたられると悪いと思って、兵隊さんに連絡して収容所(しゅうようしょ)に連れて行かれましたので、日赤か宇品(うじな)の方をさがしてみては。」とのことでした。

  さっそく父と2人で、3歳の尚子のなきがらを吉島まで取りに行きました。小舟に、おにぎりとお花がそなえてあり、顔も手足もまっ白く、薬が塗られてありました。夕暮、私どもの手で焼きましたが、こんなつらいことは、今までありません。

  アーちゃん、あなたは近所をさがしてもわからず、火の中を逃げ回ったのではなかろうかと、収容所を10日あまりさがし回りました。

  半年ぶりに、近所を整地していた人の知らせで、畳8枚くらいの下敷きになった亡きがらを見つけ、瞬間(しゅんかん)あなたとわかり、私は思わずこの手で骨や肉片(にくへん)をかき集めました。大きな肉片に何かついているので振ってみましたら、あの朝に着せていたポッキリの前、パンツの前、ああやっぱりアーちゃん、この世の人ではなかった。精魂(せいこん)つきた思いでした。思いようでは、ひと思いに死んだのではなどと、気が痛みました。

  何事にもしんぼう強かったあなたが、元気でいたらどんな人生を送っているだろう。終戦後に生れた弟と妹は、2人の生まれかわりだと、おとうちゃんと話すこともあります。

  今も、どこで亡くなったかわからない祖母、そして尚子ちゃんともども、手を取って成仏(じょうぶつ)してくださいね。2度とこんな悲惨なことがありませんよう、世界平和と原爆死されたみなさまのご冥福(めいふく)をお祈りしてやみません。

石風呂 政子 (広島市大手町) 記

被爆死
石風呂 克己 (大手町国民学校2年)