23.行方不明のままの悦子よ

  嗚呼(ああ)・・・あの一瞬の光、思い出してもぞっといたします。忘れることもできない、胸からはなれることもできない、悲しい思い出の8月6日。あの朝、空はよく晴れ、朝日はあたり一面を射るかの如く、焼け尽くすかのような朝。元気な姿で登校したわが子は、永久に帰らぬ人となってしまいました。

  私には2人の女の子がおり、姉を悦子、妹を和子と呼び、姉の悦子は広瀬(ひろせ)国民学校の5年生で、妹は1年生でした。ちょうど6日の朝、姉の悦子が「きょうは学校を休みたい。」と申しますので、それより3日前に腹痛で学校を休んでおりますので、「きょうは休んではいけない。休まないで行きなさい。」と叱ったのです。それに妹まで、「姉ちゃんが休めば、私も休む。」と泣くのです。私はとうとう叱って、2人を学校に行かせました。私の家の時計が15分進んでおりましたので、学校におくれるからと、私は急がせました。すると、その朝に限り、1番よい服を着たがり、本人に何か虫が知らせたとでもいうのでしょうか、その服をタンスから出して着て行き、妹も泣き泣き着て行きました。

  そのころは、広瀬国民学校は2つに分かれ、分校は中広町(なかひろまち)にあり、1年生だけ分校の方で授業をしていたのです。そのころ国民学校の生徒は、ほとんど郡部に疎開(そかい)しており、学校には少数の生徒しか残っていなかったのです。私も幾度かすすめたのですが、本人が嫌がり、私の主人が3月に病死しておりますので、「おかあちゃんが淋しいから、私は学校に残る。」といってきかないので、「それでは、死ねばいっしょに死にましょうね。」と、そのときは笑っていたのです。それが、私たちだけ残して、あの子が死ぬなんて思いもしなかったのです。

  もう学校に着いたかなと思ったころ、大きな音とともに、私のからだは家の中にいても投げ飛ばされました。わが家だけかと思って外に出て見れば、あたり一面に、電柱からも火の手があがっているのです。わが子が心配になり、早く助けに行かねばと、急いで行きかけると、学校は火の海とのこと。近よることができません。広瀬国民学校にいた兵隊さんも全滅とのこと。後ろ髪を引かれる思いで、中広町より山手方面に向かって走りました。すると、いかなる神のお引き合わせか、妹の和子が他の人に交じって逃げて来るのとばったり出会いました。和子はヤケドで、目は見えないといい、服はずたずたに破れ、まるでぼろ切れのように垂れ下がっているのです。そのとき、黒い雨が降り出し、それが全身のヤケドにしみ、痛い痛いと泣き叫ぶのです。「おかあちゃん、目が見えない。」といいますので、私はすぐに負ってやりました。これこそ姉悦子の魂が親子の対面をさして、妹を私の前に導いてくれたのだと思い、不思議でなりません。ひと足違っても、1分違っても出会うということはできませんのに、まして遠くはなれた山の手なのに、こんな不思議なことがあるのでしょうか。姉の魂が、妹かわいさに導いてくれたのだと信ずるほかはありません。

  一方、悦子の遺体はとうとうわからず、骨を見つけることもできませんでした。6日の朝、叱って家を出したことが今でも胸をしめつける感じです。家を出るときは、元気に、母に叱られたことも気にかけず、泣く泣く、「行って帰ります。」と我が家を出て行ったのに、その朝が、親子の永遠の別れになろうとは、誰が予測したでしょう。あの子の姿が目前に浮かぶばかりです。妹のヤケドのため看病につききりで、とうとう学校に骨もさがしに行けず、1ヶ月くらい後に広瀬学校の庭に立ち、どのへんで死んだのであろうか、さぞや私の名を呼んだことであろうと、しばらく考えにふけっておりました。庭の焼け跡で、だれの骨か知れない骨を2切れほど持ち帰り、お盆には毎年拝んでおります

  妹もヤケドにうみを持ち、1年あまり田舎の親類で養生(ようじょう)をして、学校も1年休み、再度入学して現在は勤めていますが、原爆にあっているためか、すぐからだに疲れを感じます。それに傷のケロイドは、今もからだに残っています。

  8月6日がおとずれるたびに、私はわが子を想い出し、胸は痛みます。それはみなさまも同じことだと思います。どこかに生きていてくれはしないかと、今にも、「おかあちゃん。」といって帰って来てはくれないかと、それのみ願っているのですが、それも母として許されない夢です。学校の中にいて、なんで生きていられましょう。食べたい物も食べさせられず、罪のない子どもまで死なした原爆と戦争が、憎くてなりません。どこかの空でこの世の平和を願って、私たちを見つめていてくれるでしょう。2度と平和を乱さないよう叫んでいることでしょう。

  私は山の中で3日3晩過ごしましたが、次から次へと水をほしがり、乳をほしがり、小さい子どもが母親の手の中で、6人も7人も死んでいかれるのを見て、悲しい心でいっぱいでした。それを次から次と土を掘り、その中にうめていくのです。それを見ていると、心が痛みました。市内は焼野原と化し、死体が川に浮かび、息のあるのでも、兵隊さんは、山のように重ねて重油をかけて焼かれるのです。目を開けては見ることができませんでした。原爆にあわれた人は、みなさんよくご存知のことと思います。あの恐ろしさは、経験した人でないとわからないと思います。

  みなさま、共に手をつないで、平和を守っていこうではありませんか。わが子とともに死亡されたみなさんのお子様のご冥福(めいふく)を祈りつつ、筆をおきます。書けば書くほど涙が出てきますので、これでつたない筆を留めさせていただきます。

倉本スミヱ(佐伯郡大野町字深江)記

被爆死
藤川悦子(広瀬国民学校5年生)