1.愛しき児よ

  当時、竹屋(たけや)国民学校の2年と1年生だった幸雄さん、津紀子ちゃん、8月6日のあの朝、空襲警報(くうしゅうけいほう)が解除になった直後、何だかそわそわ気の落ちつかない母の私が、2人に、「きょうは学校を休みなさい。」といったが、そのことばも聞かないで、「空襲警報が出たらすぐ帰るけんね。それでもこのごろは1時間しか授業がないけん、いっしょうけんめい勉強するんよ。」といって、振り返って手をあげて登校したあなた方2人は、そのままかあさんのところへ再び帰らなかった。

  私はあの日のことを、26年たった現在でも、まるで昨日のように次々と思い出すのですよ。太陽がまともに目の中にはいったと思ったとたんに、遠雷(えんらい)のひびきのような音とともに爆風のためにくずれた家の下敷きになったのです。やっと2階の屋根を握りこぶしで突き破って、地上に出たのは何分後だったでしょうか。長かったのか短い時間だったのか、まるで時間の見当もつかないけれど、わが家の付近に落ちたと思った火の玉は、空中で炸裂(さくれつ)して落ちた火の玉の1つだったらしく、学校の方角を見たとたん、学校は地獄(じごく)の火につつまれていました。そのときの驚き、心臓の動きも一時止まったような絶望感。

  東洋工業の夜勤明けで、わが家の近くまで帰っていたあなた方のとうさんのケガとヤケドを見ながら、かあさんはあなた方を探しに、こわれた家の屋根づたいに学校の近くまで行ったのです。学校の講堂の焼け落ちる音、吹きあがる火の粉、そして前から吹きつける火焔(かえん)に自分の頭髪がヂリヂリ焼ける音を聞きながら、とうさんを安全な場所に移すべく、あなた方2人に心で詫びながら、マッチ箱をふみつぶしたようになっている家までいったん引き返して、とうさんを肩につかまらせ、まるで背負うようにして比治山(ひじやま)橋まで出たのです。そのときの橋上、橋下の地獄絵図。かあさんはこのむごたらしい状態を口にもペンにも、記すことができません。

  あなた方2人は、この橋までも逃げて来ることができなかったのね。どんなに熱かったでしょう。どんなに苦しく、そして早く家に帰りたかったでしょう。ごめんなさいね。かあさんはあなた方2人の身代わりになることもできなくて、今でも悲しい思いでいっぱいです。

  8月8日、とうさんが旭町(あさひまち)の被服支廠(ししょう)で亡くなるまで、あなた方2人の身を案じながら、おおぜいの学徒(がくと)の身の回りの面倒をみてきましたが、次々と父母の名を呼びながら亡くなられました。少し静かになった、おとなしくなったと思ったときは、みんな息を引き取っておられるのです。かあさんはどうかしていたのでしょうか。あなた方2人の苦しみを思い、そして次々に亡くなっていくおおぜいの方々のありさまを見て、悲しくてたまらないのに、ただ芒然(ぼうぜん)とするだけで涙も出ないのです。そのとき、宮坂の美枝ちゃんが(当時5年生)助かっているのを見て急に希望がわき、比治山周辺の防空壕(ごう)、そして治療所をはじめ広島じゅう、終わりには宇品(うじな)から似島(にのしま)へ、市内の東西南北のはてまでというけれど、西は廿日市(はつかいち)まで歩いて探したものです。

  焼野原のあちこちに無数の死体が転がり、そのくせ死体だと思っているその中の、死体らしき焼けこげてウジのわいている人から声をかけられ、水を飲ませてあげたり、小さな木片を拾って折って箸のようにして、そのウジをつまんで取ってあげたり、立ち去り難い気持ちのまま幸雄さんら2人を探すため、慰めのことばをかけてどこの方かわからぬその人と別れましたが、あのようすでは、あの方も間もなしに浄土へ旅立たれたことでしょう。

  この後何年間か、かあさんは今度、戦災児(せんさいじ)を収容している所を何カ所か探して歩きました。あの劫火(ごうか)の日、無理にでも学校を休ませていれば、2人を失わなくてすんだ、こんな悲しみ、淋しさを味あわなくてもよかったのではないかと悔やまれてなりません。あの日の何日か前に竹屋においでになって、あなた方の受持ちになられた貞広先生も亡くなられたそうです。お気の毒というほかはありません。せっかく人間として生まれながらあんな目にあうとは、虫ケラを足下に踏みつぶすような目にあうとは。

  かあさんは今でも、幸雄さん、津紀子ちゃんとお話がしたいときは仏前にお念珠(ねんじゅ)を持って、あなたたちの前で夜を明かすことがあります。そして座ったままウトウトしたときでした。「かあちゃんが悲しむから。」という津紀子ちゃんの声を聞いたのです。1人残ったかあさんもあまり健康でもなく、気の安まる日はありませんが、あのときの多くの先生、児童たちのはらった犠牲はほんとに尊い、大きいものでした。今でも悲しみにたえられないときは、涙で念仏(ねんぶつ)が声にならないのです。

  ときどき広島に出ますが、この自分が歩いているコンクリートの道路の下に、おおぜいの犠牲者の方々が肉親の名を呼びながら亡くなり、遺骨(いこつ)もまだそのままになっているかも知れないと思うと、何十万人かの犠牲者の方に心の中でお詫びを申し上げるのです。

  夜明けの前が一番暗いといいます。悲しいことだけど、おおぜいのみなさんの犠牲によって、あの暗い、永い戦争は終わりました。不幸な結果に終わったのですが、みなさんの犠牲が無駄にならないよう、平和が永く続きますよう、心から念じております。残った被爆者は、みなさん方の冥福(めいふく)を心の底から祈っております。あのときの犠牲者の方に、安らかにということばは、適当ではないかも知れませんが、ただただ、どうぞ安らかに眠ってくださいと申しあげるほかはありません。

合掌(がっしょう)

落合フミコ(呉市三城通)記

被爆死
落合 津紀子(竹屋国民学校1年生)
落合 幸雄(竹屋国民学校2年生)