6.声の限り親を求めて

  「おかあちゃん、1度でよいから腹いっぱい銀飯(ぎんめし)を食べたいワネ。」そのことばが、今も私の耳に焼きついております。そのたびに私は、「戦争に勝てば何でも好きな物が食べられるよ。もう少しがまんしましょうね。」と、親子の会話はこうしてたび重なりました。

  工場で配給があったといって、箱の小さいキャラメルを食べもせずに持ち帰って、母や兄弟に分けてくれた優しい子でした。「おかあちゃんに食べさせようと思って、友だちには食べたふりをして、口をモグモグさせて持って帰ったんよ。」こんなことも言うてくれた子でした。あの敏感な、そして優しい子がなぜ私たちより先に逝 (い)ったのか、今になっても信じられません。あの当時は、何事も秘密でしたために、動員されても話してもくれませんでした。また、問いもしませんでしたが、前の工場から移って田村工場に勤務してから約1〜2ヶ月後に、8月6日を迎えたのです。

  待っても帰って来ません。心当たりをたずね歩いても、ある人は、幸ちゃんは安佐郡(あさぐん)古市(ふるいち)町の方に走って行かれたと言われました。また、ある人は、全然見なかったと言われて、一番に古市町の方に主人が出かけて、1日さがしあぐねて帰りました。2日目は、田村工場に出向いてみました。太田川(おおたがわ)の土手を歩いて行く途中、何とも言えない、これが人間の姿であろうかと思うくらい、たくさんの死体がありましたが、自分の子は、まだどこかに避難していると思っておりました。田村工場の門の前に立って、はじめて職員さん、動員学徒の方など40幾名の死者が出ていることを知りました。着衣の切れ端、鉄カブトなどが門のそばにならべてありましたが、幸子らしい見覚えのある物は何ひとつありませんでした。

  その後日から、各収容所巡りが始まりました。2週間余り各方面を回りましたが、何も見当たりません。そうするうちに今度は、私がはげしい下痢にみまわれて倒れてしまいましたが、主人は約1ヶ月さがし回りました。愛児を失った悲しみ、何もかも焼かれて放心状態の毎日でした。10月中ごろに煉瓦(れんが)の下から見つかったとの工場からの知らせでかけつけましたが、どうしても信じることができませんでした。でも、1片のお骨はいただいて帰りました。

  8月6日が来るたびごとに、その場所らしいところにトウロウも立てておりましたが、人のお屋敷にはいらせていただくのも気がひけて、今はそれも止めております。あの日から歳月も流れて遠くなりましたが、私の胸の中は、その当日と決して変わっておりません。正気のあるのに火がからだについたのではないだろうか・・・。両親の名を声の限り呼んだであろうに・・・。1度でいいから銀飯が食べたいといったのに、今は米があまって困る時代なのに・・・。温く炊いたご飯を供えながら、幸ちゃん腹いっぱい食べなさいと、ひとりごとをいいながら、仏前に供える毎日でございます。

  白い布で鉢巻(はちまき)きして、女子挺身隊(ていしんたい)の腕章(わんしょう)をして、救急カバンを肩に掛け、防空ズキンを肩に弁当はいつも大豆飯、その姿のままが、今に私の胸には焼きついております。

  幾十万人の人を戦争に巻き込んだ、まして幼き者を、罪のないあどけない者を死に至らしめた憎い憎い原爆です。2度とこんな悲劇がどこの果てにも起きてはなりません。広島と長崎この2県で最初の最後でありたいと願うものです。

竹林イツミ(広島市江波西)記

被爆死
竹林幸子(三篠国民学校高等科2年生)