2.こんな幼な子を犠牲に

  私は、40年あまり平和記念公園原爆慰霊碑のすぐ近くに住んでいました。材木町(ざいもくちょう)です。26年前の8月6日、私の家には、妊娠(にんしん)で臨月(りんげつ)に近い妻ヨシ子38歳、女子商3年生の長女美代子16歳、袋町(ふくろまち)国民学校高等科2年生の次女登喜子14歳、中島小学校4年生の長男繁治10歳、同1年生三女博子7歳、四女操(みさお)5歳の7人暮しでした。私は家から約1.5キロメートルある舟入幸(ふないりさいわい)町の軍需(ぐんじゅ)工場に勤めておりまして、あの忌(いま)わしくも恐ろしい原子爆弾で被爆しましたが、ようやくのことで助かりました。

  やっとのことでその日の午後3時、平和記念館のそば、元安川(もとやすがわ)の中ほどまで帰り、その晩、川端で夜を明かしました。明くる7日早朝、妻子をさがし歩き、妻は焼跡で白骨死体で見つけました。長男繁治は三良坂(みらさか)の寺に集団疎開(しゅうだんそかい)に行っていましたが病気で帰り、中島国民学校の分校があった同じ町内の誓願寺(せいがんじ)で授業を受けていました。昨日の朝、家を出ますとき、敵の飛行機がきて機銃掃射(きじゅうそうしゃ)をするから、空襲のときは家にいなさいといったのが最後のことば。いつも遊びに行く新橋西詰の公設市場(こうせついちば) に行き、さがす。数人の男女別不明の子どもが、犬ころが焼け死んだのと間違うように黒く、茶色に、カチカチになって死んでいる。この中に繁治、博子、操もいるかわからない。かわいそうなこと、こんな幼い子まで戦争の犠牲になって、自然と合掌(がっしょう)。女子商3年の美代子は、学徒動員で福屋百貨店7階にあった貯金局へ、袋町(ふくろまち)国民学校高2の登喜子は新川場町(しんせんばちょう)へ学校から勤労奉仕に出たはず。万一の場合は五日市の親戚に連絡するようにいってあったので、そこへ行った。そこで、登喜子が奥海田(おくかいた)の国民学校に収容されており、ひどいケガだ、と五日市の役場から連絡があり、五日市駅午前8時すぎの汽車で海田市(かいたいち)駅に行く。以下、私の忘れることのできない登喜子のことを、少し詳しく述べさせていただく。

  初めて行く所、空には星がきれいに輝きまぶしいほど、人影は1人もありません。川端を伝って上へ行く。大きな建物、第十一空廠(くうしょう)だそうな。守衛のところでわけを話す。寮母さんが出て来て、「私がきょうの昼までみていました。案内してあげます。」

  私はほんとに嬉しかった。学校に着いたのが朝1時半ごろ、講堂の板の間は多数の収容者でいっぱい。みんな全身焼けただれたり負傷した人ばかり。うんうんうなっています。奥にいる、いる。その中にただ1人、登喜子がいたのです。ほんとにほんとに嬉しかった。登喜ちゃん―。あとはただ涙で口がきけない。よかったね、よかったねだけ。着ていた白のセーラー服は、血でカチカチに固まっていた。

  「おとうさん、おねえさんは?」「うん・・・。ねえさんは、おかあさんや弟や妹といっしょに、いなかに逃げたよ。」とうそをつく。すまない。

  「おとうさん、隣の人に氷砂糖をもらったのよ。あの人に何々をもらったの。よくお礼をいってね。」

  夜が明けた。きょうも暑い日だ。奥海田(おくかいた)国民学校の被爆者収容所は、板の間の理科教室約25坪くらいの広さ、左隣は運動場、教室の入口右側に教壇があり、後の壁黒板に収容者の氏名、その日の献立表が書いてある。室いっぱいに放射線に焼けただれた患者たち、「うーん、うーん。」とうなる人、ハエがたくさん飛んでくる。負傷者の人の傷口にウジがうようよはいまわる。くさい、くさい。

  血に染まったカチカチの白いセーラー服の登喜子さん、左手首、耳を大きく負傷している。日ごろからやせぎすの登喜子さん、背中と腹がくっついているようにペッシャンコ。気は確かだ。ただ、「頭が痛い、痛い。」と訴える。どうすることもできない。昼の食事は少ない。にぎり飯半分。いとこの五日市町の山本三次郎にいさんが尋ねて来てくださる。ほんとに嬉しい。登喜子ちゃんが桃が食べたいという。にいさんに頼む。ほんとに、にいさん、すみません。晩に近い。ヤブカがぶんぶん飛んでくる。登喜子さん、用便が近い。そのつど共用のオカワを使用。運動場のポンプで洗う。一睡もせず見つめるだけ。

  12日の昼過ぎ、三次郎にいさんが美代子を連れて桃を持って来てくださる。美代子に会った。元気だ。夢ではないか。1週間目だ。ほんとによかった、よかった。福屋百貨店の7階で被爆し、安芸郡(あきぐん)温品(ぬくしな)村の伯父、品川作太郎の家に避難したとか。そのときもらった浴衣(ゆかた)を、血でカチカチになったセーラー服と着替えさす。三次郎兄と美代子を一緒に帰らす。

   13日、「男の先生、男の先生。」とよく口ばしる。聞けば青年学校の先生とかが来てくださった。登喜子さん、どんなかと尋ねてくださる。「頭が痛い、痛い。」と訴える。オカッパ頭の後部をよく見れば、縁が白くなっていて、ピンセットでさがし出してくださったのをみれば、ガラスの破片。大きいので長さ6センチ、幅15ミリ、厚さ3ミリくらいの他に少し小さいのと、3カ所も頭の中に食い込んでいる。かわいそうな登喜子さん、痛かったであろう、苦しかったであろう。盆が来たといって、室にいた被爆者たちはこの近くの方らしい、ほとんどどこかに帰られる。残った人は重傷の方ばかり。晩がた、保健婦の方らしい人が、
「万一変わったことがあれば、宿直室にいるから知らせてください。」といって行かれる。
「おとうさん、お茶がほしい、お茶が。」という。「お茶はないのよ。」
私は一睡もしていない。毎日、毎晩の看病と胸の痛みで動かれない。
「おとうさん、あそこにあるではないの。私が行って飲んでくるよ。」
骨と皮の登喜子ちゃんはいう。3間くらい先の大きな鉄の火鉢にヤカンがかかっている。
「おとうさんが持ってくるよ。」と、這(は)うようにして取って来て飲ます。末期(まつご)の水になろうとは。手の指を見れば、だんだん紫色に変わってくる。今晩一晩でも、もてばよいが。
「おとうさん、おとうさん、おかあさんや繁治、博子、操、みんな死んだのでしょう。」
登喜子さん、死ぬなよ。泣けてきた。涙が自然と流れ落ちる。

  14日朝9時ごろ、息を引き取り、帰らぬ旅路に。ああ、登喜子さん、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)、南無阿弥陀仏、合掌。学校の方に火葬(かそう)のことを頼み、煙草(たばこ)の大きな空箱に登喜子さんを納め、2人の男の方と荷車を引き、山の火葬場で荼毘(だび)に付す。学校に帰る途中、瀬野川(せのがわ)の名もない板橋のかかっている河原で思いきり泣いて、泣いて、涙のとまるまで泣いた。なんで自分も死ななかったのかと。その晩はじめて学校の板の間で寝た。

  15日の朝、山の火葬場でお骨を拾う。オシャリ様が型も崩れずそのままあった。合掌。残ったお骨は全部火葬場の側に立っている、南無阿弥陀仏と書いてある石碑の下に埋める。お骨を胸にしっかり抱き、海田市駅より汽車に乗り、疎開先の廿日市宮内(みやうち)に向かう。広島駅に着いたのがちょうど12時。

  駅の方が、「重大放送がありますから、全部降りてください。」と告げて回る。構内のラジオの前に集まる。「ただ今から、天皇陛下の終戦のおことばがございます。」みんな頭を下げて聞き入る。中には声をあげて泣く人、すすり泣いている人、私にはなにもわからない。口々に小さい声で、「日本が戦いに負けた。」といっている。私は日本の勝利を確信していたのに。涙がとめどもなく頬を伝って落ちてきた。もうこれ以上書けません。26年前を手記 (ついとう)し――。

  7人家族だった一家のうち、けっきょく2人だけが残りました。

三好茂(広島市白島中町)記

被爆死
三好登喜子(袋町国民学校高等科2年生)
三好繁治(中島国民学校4年生)
三好博子(中島国民学校1年生)