3.炎の中で訣別を

  昨夜は大空襲(くうしゅう)がありました。三男を背負って夜空を仰ぎながら、「真三郎、死ぬときはいっしょに死のうね。」と話したのです。長男は徴用(ちょうよう)に、2年と4年の二男、三男は夏休みで家にいたのです。空襲警報(くうしゅうけいほう)解除でシャツを脱いでホッとしたときです。

  8月6日午前8時15分、大音響とともに家は倒壊(とうかい)、3人ともに家の下敷きになり、助けてください、助けてくださいの叫び声を聞きながら、二男と私は暗やみをはいだして三男の声の方をたよりに、全身埃(ほこり)まみれになって、瓦や赤土、紙や本の散乱を払い除けてさがしあてたが、大きな梁(はり)の下敷きになって、頭と胸を打たれて助けを求めております。神様、仏様、助けてください、お願いします。私は心より合掌をしました。無念残念でたまりません。必死の努力も女の力では、とうていだめでした。

  「おかあさん、もうええよ、もうええよ。」と真三郎の声でした。「おとうさんの所へ行っていてね。後から行くから。」私はこう申しました。火焔(かえん)はますます私たちを襲ってきました。ここで母子は涙の訣別となったのです。

  短い生涯でした。この世に生を受けて日々戦争に明け暮れ、食べ物も充分に与えられず、学問も身につかず、空襲に追われる生活でした。この短き命を、自分自身で諦(あきら)めてくれた幼き心――、母親にはよくわかるのです。26年たった今日、涙なくしては語られないのです。父親は生後40日目に宇品(うじな)を発って、支那事変(しなじへん)のため出征。昭和13年4月30日戦死。父の顔も知らないのに、「お父さんの顔知っている?」「ええ知っとる」「どうして」「お写真で知っとるよ―」といっていました。

  被爆地は広島市昭和町、幟町(のぼりまち)国民学校2年生、当時9歳、性質は無口な温厚な子どもでした。「無染日真童子」の冥福(めいふく)を祈る。写真は当時は撮れませんでした。4歳くらいのが1葉(いちよう)、仏壇に飾ってあります。

玉田富子(広島市舟入中町)記

被爆死
玉田真三郎(幟町国民学校2年生)