7.消息不明の子どもたち

  光陰矢の如く(こういんやのごとく)、星移り変わり、悪魔の爪痕(つめあと)は消滅したごとくに見えるといいながら、われわれの心の底に残した深い深い傷痕(きずあと)こそは、永遠に消え去ることはないと思います。

  一瞬にして廃墟(はいきょ)となり、人生の地獄(じごく)絵巻と化した広島市内、これが原子爆弾とは、当時知るよしもありませんでした。

  昭和20年8月6日午前8時15分、あれから26年、思い出したくもない、忘れることもない。被爆者の気持ちはみんな同じだと思います。あれ以来、生ける屍(しかばね)として、食べんがために働き、働くから食べるほかに、何ということがありますでしょう。

  26年前の爪痕(つめあと)からは、現在でもどす黒い血が流れているのです。希望もなく、ただひたすらに原爆死した犠牲者の、あの当時の幻像(げんぞう)を抱きながら、勝つまでは欲しがりませんといった子どものことばを思い出しては、戦争に負けたのよ、僕も私もかわいそうな犠牲者だったねと、幻影(げんえい)に語るのが唯一なのです。26年間は過去の悲惨な思い出、このたび私たち念願の「原爆被爆犠牲教師と子どもの碑」を建設していただくことに当り、脳裏(のうり)に深く深く打ち込まれている記録をひもといてみたいと思います。

  8月6日

  8時、空襲警報(くうしゅうけいほう)解除のラジオの放送に、盛夏ではあるし、暑い暑いといいながら子どもたち4人は身軽な服装になり、私も長男と長女を学校に急がせた。どうしてか今朝に限り、長男が登校を嫌がる。友人の今井君が誘ってくださっても、「今井君、きょうは学校を休むよ。先生にそういってくれ、たのむよ。」といって、どうしても出かけようともしない。

  私は、「5年生でしょう。疎開(そかい)児童に負けてどうするの。」というと、「きょうは、広島が全滅になるよ。宇品(うじな)にチラシビラが飛行機からまかれたよ。」と、だれに、どこから耳にしたのか、そんなことをいいました。そんなことを口走ったらたいへんよ、といいながら、またもや登校を急がせました。

  長女はもんぺ姿で、かわいいもみじのような手をふりふり出かけました。

  8時10分ごろになってやっと重い腰をあげました。「おとうさん、おかあさん、行ってまいりません。」と申します。私も笑いながら見送っていると、また引き返してきました。「今度はほんとうに行くよ。きょうはゲートルザツノウもいらないよ。おとうさん、おかあさん、元気でね。」といったことばが、今もなお脳裏(のうり)に深傷として残っています。どうして無理に登校させたのかと思うと、胸中張りさけそうです。これが親子の別れの宿命だったのでしょう。姿の見えなくなるまで見送り、家にはいると、二女(4歳)は外の貯水槽から庭の中に小さいバケツで水を運んで遊んでいました。三女(生後10ヶ月)は、おしめカバー1枚で裸でした。三女の遊んでいるところまで行こうとしたとき、突然ピカピカと青い光線が稲光(いなびかり)のように感じ、アッと思う瞬間、ガタガタと大きな音がして私たちは家屋の下敷きとなり、私は大きな声で子どもの名を叫び続けたが、全然わかりません。気がついたときは、遠くの方で聞こえる主人の声、私はまだ自分が生きていることを知り、「助けて、助けて。」と力のある限り叫びました。「オーイ、オーイ、どこにいるか、泰子が生きているぞ!」と力強く呼ぶ声は、だんだんと近くに聞こえるようです。主人の1つ1つ取り除いてくれる障害物、やっと掘り出してもらったときには、主人は片腕に三女を抱いておりました。この子を連れて救護所に行くようにといいました。死んだような、泥沼から引き上げられた子どもを抱いてボンヤリしていました。どこに救護所があるはずもなく・・・。

  そのうちに家屋は、全部火の海となり、2人の子どもを連れて、少しでも火の中から遠ざかろうと右往左往している間に、貯水槽を見つけ、泥水が底に10センチくらいありました。私は自分の破れかけのもんぺを破り、その汚い水で三女の顔を拭いてやりました。傷のため、頭からも胸からも血が吹き出るのです。重ねてもんぺを破り、身体に巻きつけました。かすかに心臓は動いているらしく思えました。周辺地にと火事場から少しでも遠のこうと思いました。

  あたりの家屋の下から、助けて助けて、おかあさんおかあさんと、親は子どもを、子どもは親を呼び続けます。苦しい苦しい心を鬼にして長蛇(ちょうだ)の列に加わり、親子でまず安全地帯と思える比治山(ひじやま)橋まで逃げました。川の水は干潮だったと思います。一面に兵隊さん、避難民の群です。中には死んでいる人、目の前で死ぬ人、救助隊の小舟も出ていましたが、みな山もりです。人間の山もりということがあるでしょうか。中には苦しさのあまり川に飛び込んで死ぬ人も幾人もあるのです。このとき、竹屋国民学校に行っている子ども2人を助けようと、学校の方へ足を向けても火の海で、近よることもできません。私たちは、どこかに逃げていてくれると信じておりました。もはやどこに行くところもなく、温品(ぬくしな)のお寺に収容されました。

  午後5時ごろでした。隣が温品小学校、学校の倉庫は死人の山、学校内の避難民、焼けただれた人々はみな苦しみ、どんな治療もできず、水をください水をください、という人ばかりです。絶命しているおかあさんのお乳を離さずしゃぶっている乳のみ子、なんという残酷さでしょう。おにぎりを1つ、竹の皮に入れてもらって離さず、おばあさんが死んだよ、おばあさんが死んだらいけんよ、と泣き狂う小学校2年生の男の子、なんという残酷さでしょう。夜中には空襲警報発令、10分間くらいで解除になり、夜通し半死半生の子どもを抱いて、死体や患者とともに夜の明ける時間は、長い長い1夜でした。

  8月7日

  こうしてはいられない、5時にお寺でおむすびを5個いただいて外に出ると、親から離れ離れになった小学生が、何かおばちゃんちょうだい、といって私たちを離れません。いただいたおにぎりをみんな与えて、その場を急ぎました。乗り物があるでなし、竹屋国民学校までは、急げど急げど遠く、時間がかかりました。途中いたるところに、おとなといわず、子どもといわず歩いていて、その人たちを運んでくれるのではなく、トラックが通ります。他市から救助隊として来たらしく、死体の収容です。魚屋さんが使う手かぎで死体を集めるのです。まるで塵(ちり)集めをしているようです。地獄(じごく)というのだろうと思いました。今思い出しても、ゾーッと冷汗が出るようです。

  竹屋国民学校についたのが午後1時ごろです。まだまだ煙は、もうもうとたっています。昨朝の学校は見る影もなく、ただぼんやりたたずんでいるだけです。玄関と講堂の鉄骨が人間の力ではできないほどに弓なりで、まだ温みのある白骨はあちこちで見られます。ここで何人が焼け死んでいるのか、わかるはずもありません。私たちの子どもも、これでは逃げられない。ここで・・・と思うと急に悲しさが増し、大声をあげて泣きたいだけ泣きました。

   給食室と思える場所には、まだ暖かい白骨があり、逃げおくれた子どもと思えました。足のはいれるところはみんな回り、どの骨がわが子かとさがしましたが、何でわかりましょう。みな同じような白骨です。ちょうど築地先生に玄関で会いました。6日の朝のようすを全部話していただきました。

  毛利君は、私の助け出した子どもの中にはいないように思うけど、何しろ男女の別さえわからないようだったから、といわれ、毛利君のことだからきっと逃げているでしょう、と私の気をやすますためにいってくださったと思えます。でもその一言が嬉しくて、急に望みをもち、どこかに生きている、どこかに生きていると、自分にいいきかせました。

  8月8日

  もはや私たちには、地位も財産もいらない。からだだけになった今、神様、私たちに何とぞ子どもたちを返してください。お願いしますと念じながら、きょうも第一に竹屋国民学校へ行きました。消息不明。焼けた鉄かぶとの中に、3人ほどの白骨を集めて講堂の横に置いて手を合わせ、どこのだれでもよい、家族の方に夢にでも知らせてあげてねと、私たちは白骨に話しかけました。学校ばかりにいても駄目だから、市内から周辺を回ることにして、親子浮浪者はぐるぐると東西南北、橋の落ちているところは鉄橋を横ばいするのです。下を見れば死体が沈んでいるのも無惨(むざん)でした。

  日夜を通して歩いた、さがした。無傷の人でもどんどんと死んでいく。そのときには悲しいとも気の毒とも思わない、次は自分たちの番だと思うからです。

  8月9日

  今朝は、もう家族全滅となり、主人も動くことすらできない。竹屋国民学校に行けど消息不明。早々に寝所(しんじょ)に帰り、主人のようすに驚く。高熱、頭髪は抜け、斑点(はんてん)は身体一面に出て、下痢で苦しそうだった。二女は下痢で、三女は胸と首に3センチくらいのガラスがたっていたため、もうくるところまできたと諦(あきらめ)めたのもこのときです。

  原子爆弾の1発が、こんなに人生を傷つけたのかと思うと・・・。いいえ、私たち以上の被爆犠牲者はたくさんたくさんおられるはずです。

  今、記録を綴(つづ)ったことは、当時の惨状の万分の1にすぎないと思います。

  現在二女、三女は結婚しております。被爆者として、日夜どんな気持ちで暮しているか。被爆者のみの知ることと思います。

毛利よしこ(広島市河原町)記

被爆死
毛利 美恵子(竹屋国民学校1年生)
毛利 博次(竹屋国民学校5年生)