4.真白いごはんを食べさせたい

  勝司ちゃん、あなたが生まれて2週間後に支那事変(しなじへん)が始まり、そして8月6日から10日後に終戦。戦争の間、あなたは生を受けていたのね。人間らしい楽しい生活も知らないままに。あなたがもの心ついたごろから、夜は灯火管制(とうかかんせい)で暗闇の生活。食べ物は大豆ごはんや糠(ぬか)のまじったおだんご。あなたは大豆(だいず)ごはんが大嫌いだった。

  8月6日のその朝も、おかあさんは仕方なく大豆ごはんを炊きました。嫌いといったあなたは、おかあさんから叱られて涙をいっぱい浮べて食べました。そして学校へ行ったのね。ランドセルを背負って、「行って来ます。」これが最後のことばでした。あなたはそのまま2度とおかあさんのもとへは帰って来なかったの。あのとき、なぜ叱ったのだろうと、20数年たった今も心に残ってしかたがないの。

  あなたはどこで死んだの。火に包まれながら、おかあさん、おかあさんと泣き叫んだのではないかしら。全身ヤケドをおいながら、苦しい息の下から、おかあさん水を、おかあさん水をといいながら、息が絶えたのではないかしら。どんな姿になってもいい、もう1度おかあさんのところへ帰って来てちょうだい。そしたらこの胸にしっかり抱きしめて、そして真白いごはんを腹いっぱい食べさせてあげたいの。これがおかあさんの切なる願いです。

  このたび広島在住の親類より“被爆教師と子どもの碑”について連絡して参りましたので、とり急ぎ筆をとったしだいです。私は、当時上天満町(かみてんまちょう)で被爆した者でございます。長男はそのとき、天満小学校2年生在学中で、その日は登校日で、朝8時に家を出たまま帰って参りませんでした。家から 15〜6分で学校へ行けるところでしたので、おそらく学校へ着いたとたん、被爆したのではないかと想像しております。通学の道や学校その他を、何日も何日もさがしましたけれど、とうとう見つけることができませんでした。

  26年以上もたちました今も、当時の姿でかえって来るような気がして。それで8月6日を命日として供養(くよう)いたしております。主人も原爆症のため、その年の暮れに亡くなりました。家を焼かれ、当時2歳の長女と母と私の3人が残り、途方にくれまして、長崎県大村市の親類をたよって、21年7月に広島を離れました。大村で20年過しましたが、その間何度も広島へ墓参りに行き、そのおり、天満小学校を訪れまして、被爆した先生や児童の慰霊祭などのことを伺いましたけど、別にそのようなことはしていない、市と合同祭だときき、いささか物足りなさを感じていたしだいでした。

  このたび、親類から新聞の切抜きを送ってくれまして、ご趣旨(しゅし)に大いに賛同いたします。長女も成長して婿(むこ)養子を迎え、その息子の任地が青森県のむつ市になりましたので、2年ほど前からこちらに参っております。いちおう住所、氏名、子どもの氏名をお知らせしますので、よろしくお取りはからいくださいませ。

  これで子どもも、草葉(くさば)のかげで喜び、浮かばれることでございましょう。遠く離れてはおりますが、何かとご連絡いただければ幸いと存じます。

新谷君江(青森県むつ市大湊宇曽利川)記

被爆死
新谷勝司(満国民学校2年生)