9.美代子の誕生日の日に

  先日はお手紙をいただき、まことにありがとうございました。さっそく、原爆当時の悲しい思い出をしたためてお送りするつもりでありましたが、私はこの年でまだ働いております。ちょっとの無理がこたえたのか、貧血を起こし、目まいがして1週間くらいになりますが、いまだに安静にして休養をとっております。返事をさしあげねばと気にしながら、遅くなりましたこと、お詫び申し上げます。

  年月のたつのは早いもので、あれからもう26年、忘れようと思っても一生忘れることはできません。昭和20年8月6日の朝まで、私たち一家は、広島市横川(よこがわ)町に住んでおりました。その朝主人は、防空班長をしておりましたので、隣組の人を集めて土橋(どばし)方面に建物疎開(そかい)に連れだって行きました。長男の息子は中学3年生で、学徒隊として東練兵場(れんぺいじょう)に防空壕(ぼうくうごう)を掘るために出て行きました。小学1年生であった長女の美代子は、8月6日が8歳の誕生日に当たるので、「きょうは、赤飯をたいてお祝いしてあげましょうね。」と私が申しましたら、よろこんで防空頭巾(ずきん)をかぶり、赤と白の手旗(てばた)を持って出て行きました。その姿が今も目に浮かんで見えるようです。三篠(みささ)の学校でしたが、上級生は集団疎開し、4年生以下残った生徒は、あちこちに分かれて勉強しておりました。美代子は、横川青年会館に行くことになっておりました。それが8時数分後に、こんな悲惨(ひさん)な目にあうとは夢にも思っておりませんでした。

  憎いB29のため原爆を落とされ、多くの命がうばわれました。幸か不幸か、産後10ヶ月くらいの赤ちゃんをかかえて家の中にいて、どうやら命は助かったものの、命がけで逃げました。長女の美代子のことが心配で、さがしに行こうと思っても道はふさがり、どこがどこやらわからず、真黒い煙があちこちにあがり、火の手が見えてきましたので、どうしようもなかったのです。私1人であったら、どうにかなったろうに、抱いている子どもを死なしてはかわいそうと思い、途中引き返すのをあきらめました。後を引く思いがしましたが、残念ながら逃げるよりしかたがなかったのです。平常から、安佐郡(あさぐん)方面へ避難するよう聞いておりましたので、古市(ふるいち)の学校までたどり着きました。

  7日朝、主人や子どもをさがしに出かけましたが、とうとうだれも見つかりませんでした。7日の昼過ぎ、トラックで運ばれたなかに、主人と長男がおり、出会いをよろこんだのもつかの間、主人は半身焼けただれ、7日夜、学校で亡くなりました。家をなくした私たち母子3人は、私の母の実家である賀茂郡(かもぐん)志和町(しわちょう)の伯父の家で世話になることができました。

  昭和25年4月に引き上げて、大阪にまいりました。長男は、1年くらいしてぼつぼつ原爆症が出て、からだが弱くなって長い間、貝塚の国立療養所に入院しておりましたが、昭和29年3月29日に、とうとう26歳で亡くなりました。

  いまさら、いくら申しても仕方がないのですが、原爆さえ落とされなかったら、こんな苦しい目に会わなかったと思います。

小田シゲ子(大阪府豊中市千成町)記

被爆死
小田美代子(三篠国民学校1年生)