5. 長男、義也をしのびて

  あの運命の日の空は、よく晴れて雲1つなく、朝より強い太陽が輝いていた。昨夜2度、空襲警報(くうしゅうけいほう)が発令され、そのたびに勤務して、ほとんど眠っていないねむい目の中にも、空の色は、鮮やかに映った。

  妻は腹痛のため寝ていたので、鈴峰(すずがみね)中学2年の長女、三篠(みささ)国民学校4年生の、次女、1年生の長男義也と、その弟と自分と5人で、簡単な朝食をすませた。早朝に出た警戒警報は解除になった。長男も2日前より腹痛をおこして学校を休んでいた。「腹いたはよくなったか。」と聞くと、「よくなったから、きょうは学校へ行く。」という。例年なら楽しい夏休みなのに、時局がら夏休みも返上して、日曜以外は勉強に登校していた。しかし、学校は軍隊に大部分接収(せっしゅう)され、地域ごとに分教場(ぶんきょうじょう)が設けられて授業を受けていた。

  長男は、自宅より一番近い横川(よこがわ)青年会館に行っていた。会館は、横川本通より1メートル幅くらいの道を50メートルほど西にはいったところにある平屋建(ひらやだて)の50坪くらいの瓦(かわら)の建物で、道の北側を幅1間(いっけん)の堀が沿って流れていた。西隣りは看板屋であった。2日も腹痛で休んだので、登校したがよかろうと、それではと、教科書などのはいったカバンと大きな防空頭巾(ずきん)を肩にかけて、姉といっしょに行くことになった。出る前、何か心残りし、「もしお腹が痛くなったら途中からでも先生にいって帰らしてもらうのだよ。」と、何度も何度も念を押すようにいってやった。

  どちらかといえばやりたくなかった。長男はそのたびに、「うん、うん。」と返事した。そして7時40分ごろ玄関を出て行った。まさかこれがその姿の見納めとなり、親子の生き別れになろうとは思わなかった。子どもが出て行ったとほとんど同時に、妻の方の親戚の母と娘が訪れ、表6畳(じょう)の間(ま)で雑談しているあいだに運命の時刻、8時15分となった。

  このとき、姉の宏子と弟の義也は、仮教室の西隣の看板屋の前で、無心に手をつないで授業の始まるのを待っていた。この幼い2人の子どもの身の上にも、また、自分らの上にも、全広島市民の上にも、全然予期せぬ運命が突如として襲いかかったのだ。一瞬、青白い閃光(せんこう)がつっぱしり、あたりは夜のように暗くなった。そして電線の黒い被覆線(ひふくせん)、黒い防空暗幕など、黒いものはすべて赤い炎をあげて燃えだした。また、百雷(ひゃくらい)の炸裂(さくれつ)するがごとき強烈な音がして、ほんの4〜5秒くらいの間をおいて、ものすごい爆風が襲いかかってきた。あたりの建物という建物は、ことごとくふき倒された。今まで姉と手をしっかり握っていた弟も、この瞬間ふきとばされて、その姿はなかった。

  姉は半狂乱(はんきょうらん)になって弟の名を、幾度も幾度もくりかえし絶叫した。しかし、倒れた建物の下敷きになったためか、全然こたえはなかった。そのうち、少し明るくなったが、上空はこれまたあれほどよく晴れていた空なのに、どうしたことであろう、白い雲が渦まいていた。また、あちらこちらから火の手があがってきて、強い風が吹き出した。宏子も、ここにいつまでも止まっていては焼死する危険が迫ってきた。弟のことを心配しながら電車道に出た。家の方角は、すでに炎に包まれて帰れないので、横川(よこがわ)橋の下に逃れた。20分くらい前、途中で忘れ物を家にとりに帰った瀬戸君は、爆風で電車の敷石にたたきつけられ、内臓を出して死んでいた。

  以上の概要は、後日再会したとき、宏子より私が聞いた当時のようすである。もし自分が、そのとき、その場所に居合わせたら、たとえ私の身はどうなろうとも、何とかして助けたものをと思うと口惜しい限りである。しかし、ちょうどそのとき、私の家も爆風で倒壊(とうかい)し、自分は顔や手などに大ケガをし、やっと家の下敷きよりはい出した。ここもまた、間もなくあたりが火の海となり、妻や親戚と母と娘を助けることもできず、やっと北方150メートルくらいの所にあった三篠信用組合倉庫まで逃れてきたが、ここも炎につつまれようとし、北の方に逃げようとしたが、足の傷が悪化し、出血のために目がくらんで、立ちあがると目の前がまっくらとなり、立ちあがることができない。もちろん、歩くこともできなくなった。今朝別れた子どもは、どうしたであろうかと心配しても、どうすることもできなかった。

  その日より数ヶ月して、これが長男の遺骨ですと、ほんの掌(てのひら)にいっぱいほどの遺骨を、もとの隣組の人より受け取った。これがあの日の朝、家を元気に姉と出て行ったあの子の今の姿なのだと見つめる目からは、あまりのことに涙さえ出なかった。女の子ばかり次々に出産して、4人目に生まれた長男は親として実にたのもしく、可愛かった。大きくなるにつれてがんじょうな体格となり、とても元気で病気などあまりしなかった。当時、食糧難のため、三滝町(みたきまち)にある畑に役所の休日には農作業するためよく行った。長男はそのときには、かならず私について来た。遊び友だちや遊び道具の何1つない畑ばかりの所で退屈もせず、ときにはうす暗くなる時刻まで、仕事の終わるまで待っていっしょに帰るのであった。

  昭和20年4月1日、三篠国民学校初等科1 年生として新入学した。この朝、赤飯で心ばかりのお祝いをした。毎日、姉や友だちと元気に通学した。ある日の夕飯のときは、「僕、きょう先生から何かお話しなさいといわれたので、教壇にあがって、『ある日おばあさんが川で洗濯していました。すると川上から着物が流れてきました。1枚2枚3枚、4枚(しまい)』といって教壇を降りたんだよ。」といって、みんなを大笑いさせたこともあった。あの元気な、しかし臆病(おくびょう)なところもある、私から少しも離れようとしなかった子、恐ろしい爆風に吹き飛ばされて、倒れた家の下敷きになり、迫る猛火(もうか)に逃げることもできず下半身から焼けていったのか。いっしょうけんめい父母の名を叫んで、助けを求めたことであろう。何という悲惨(ひさん)なことであろう。これほど悲惨なことが他にあろうとも思えぬ。しかも、同じようなむごたらしいことが、その日、広島では数限りなくあったのだ。助けを呼ぶ声を耳にしながら迫る猛火(もうか)に助けることもできず、手を合わせて許しを乞いつつ、自分だけ逃げた人もたくさんあったのだ。猛火も消えてから、たくさんの死体は、ちょうど魚かゴミを焼くように積み上げられたうえ、火葬されたのだ。私がもらった遺骨も、その一部であったのだ。

  あれから26年、長男はときどき夢に出てくる。市内の遺跡は取り除かれ、あるいは風化もしたが、私たち遺族のあの悲惨な記憶は、昨日のことのように思い出されて、決して何年たっても風化することはない。なにぶん26年以前のことだから、故人に対しては冥福(めいふく)を祈るほかない。しかし、なぜ人口の密集した都市の中心に原爆を投下したのか。軍事上、政治的にもいろいろ論議されているが、せめて無人島にでも投下して、その威力はこのように凄まじいものだと示して、日本に降伏を勧告(かんこく)する手段をとらなかったのか。私はここに人種的偏見(へんけん)のあることを感じる。その後、核兵器の発達、宇宙技術の発達は、もし核戦争となれば、人類やその他の生物も完全に絶滅し、月世界のような砂漠となることは必至(ひっし)である。われわれ被爆者は、生ある限り、ノーモア広島、戦争絶対反対を叫び続ける。

追悼の詞

義也よ今日は8月6日
お前の命日だ
あの日お前は
大きな防空頭巾を肩よりつるし
私のことばに1つ1つうなずきつつ
家を出た
その姿は 私の眼底に焼きつけられて
永久に消えることはない
臆病(おくびょう)なお前が 烈(はげ)しい爆風に飛ばされて
こわれた家の 柱の下敷きとなり
生きながら 足のほうから焼けていったとき

さぞ 父母の名を呼んで
助けに来ぬ人をうらみ泣き叫んだことだろう
そのときの お前の苦しみを
思うとき私の心は狂いそうになる

義也よ どうぞこの父を許してくれ
ちょうどそのとき 父も家の下敷きとなり
爆風に吹き飛ばされたガラスの破片に
大ケガをして 出血のため 危うく
死ぬところだったのだ。

そのため父は お前の母も 宇部の母娘も
助けることができなかった

父はお前のお母さんや この人たちに
血の涙を流して許しを乞うほかない

父ももう70歳近い 余生も残り少なく
なった あの世とやらで
おばあさんや お前の母や その他の
たくさんの亡くなった人と 語り合うことを
楽しみにしている

今日はお前の母とお前の墓に
お詣りして 声なき声を聞かしてくれ
お前の好物であった
無花果(いちじく)の実を供えよう
心ゆくばかり たべておくれ

内山正一(広島市横川)記

被爆死
内山義也(三篠国民学校1年生)