11.前日家へ帰ってきたのに

  静弘は、私の末の弟でした。私が学んだと同じ済美学校(せいびがっこう)で、そのとき6年生でした。

  私は、主人海軍士官の勤務地、山口県柳井市(やないし)平生(ひらお)に住んでいました。8月6日正午すぎでしたか、広島市の被害状況を主人から知らされたのです。広島市は完全に全滅、広島には主人の兄姉、私の母、姉妹がおり、末弟は可部に疎開(そかい)と聞いていました。その静弘が、母の顔が見たくなったのか、前日家に帰り、6日に登校して済美学校の校庭であの原爆に・・・。

  8月8日朝、私は主人の勤務先のトラックが呉(くれ)へ軍需品を取りに行くのに、主人といっしょに便乗することを許されたのです。広島は完全に無となっていました。己斐(こい)に着くと比治山(ひじやま)がすぐ手にとれるように近くに見えました。

  鉄砲町(てっぽうちょう)の女学院正門前に私の実家がありましたが、そこには何もありませんでした。ただ焼跡です。水道の管が破れてチョロチョロ水が流れていました。私は陽を浴びながら、その水を飲みました。みんなどこへ行ったのだろう。太陽の輝く真昼の焼跡は、静寂そのものであったのを不思議によく覚えています。もと門があったところに、板切れにかすれた文字で、「吉井は可部(かべ)に行きました」と書いてありました。

  私たちは呆然(ぼうぜん)としながらも、だれかは生きていると思い、北に向かって歩きだしました。泉邸(せんてい)に逃げ、牛田(うした)の方で一夜を明かした母と姉は、けがをしながらもまあまあ無事。ただ弟の静弘は、熱にうかされて床についていました。ホータイだらけの顔、手足。母の話では、昨夜、大八車(だいはちぐるま)で運んでこられ、水を1杯飲んでそのまま一言もいえず高熱に苦しむばかり。その夜は狭いひと間で寝につきましたが、明け方、静弘は短い一生を終わりました。

  弟は何も悪いことをせず、何もわからず、いたましい身体のみ肉親の前に帰ったのです。夕方、弟の軽い遺体をみんなで抱いて、根の谷川の河原に持って行き、石で囲って焼きました。私たちは、弟の遺体が焼けていくのを見て、広島へ出るトラックの便に乗せてもらいました。私たちは、まだ広島にいる主人の近親をさがさねばならなかったのです。翌朝、母と姉妹で小さくなった白い骨を拾い集めたそうです。その姉も数年後、原爆症で亡くなり、終戦後何カ月かして復員(ふくいん)の老父は、末弟にと重い荷物を背負うて帰りました。

横山安芸子(安佐郡佐東町緑井)記

被爆死
吉井静弘(済美学校6年生)