18.二次放射線で自成は逝く

  スッーと目の前を光が走ったホンの一瞬のできごとである。宿直から帰ってきたばかりの主人が、顔中血だらけでつっ立っている。救急箱を取りに部屋の中へもどった。非常用のリュックサックは隣の部屋へ飛び、その上にたんすが倒れ、その上に畳がかぶさっていたのをおぼえている。

  「子どもはどこだ。」という主人の声で、われにかえる。「タスケテー。」の声が隣のほうから聞こえる。つわりのため臥(ふせ)っておられた隣の奥さんだ。助けを求めるべく外に出てみた。人、人、人。ただ黙って歩くのみ。あとで考えるとダラリと皮がぶらさがり、顔も判然としない。家の方へ帰って見ると、主人が隣の奥さんを引っ張り出していた。2〜3軒先の玄関で遊んでいた子どもを掘り出す。いっしょに遊んでいたその家の淑夫君は、腸が露出して、両親が戸板(といた)にのせて饒津(にぎつ)公園の防空壕へ運んでおられた。(1週間くらいで亡くなられた由)

  ちょうど常盤橋(ときわばし)の鉄橋にさしかかった列車が、横倒しになっていた。「タンクが爆発するから、早く山へ逃げろ。」腕章(わんしょう)をした人のどなる声に、もう夢中で子どもの手を引き、1人は背中におんぶして牛田(うした)山へ逃げた。出血多量の子どもは、水を欲しがったので、バケツを拾い水を入れて持って回った。その水ほしさに中学生らしい子どもが2人、どうしても離れずそばについて回った。すっかりハダカで、全身の皮がハガレていたのでなくなられたと思う。じゅうぶん水を飲ませてあげてよかったと思う。夕方、真赤に焼けていた空も少しはおさまったので家に帰ってみたが跡かたもなく焼けて、煙がまだいぶっていた。

  疎開(そかい)に行っていた白島(はくしま) 国民学校6年生の自成は、安佐郡(あさぐん)鈴張村(すずはり)の称名寺(しょうみょうじ)で広島の両親を案じながら、迎えの来るのを待っていた。身内の者の元気な人から次々と寺を去っていき、行方不明、全滅の家からは音沙汰(おとさた)なしで、子ども心に抱き合って泣いた話も聞いた。早く迎えに行ってあげなければかわいそうだ、とのことづけだった。主人も私も赤痢(せきり)同様の病気で臥(ふ)していたので、長女が連れに行って帰ったのが8月17日のことだった。

  帰ってきた子どもは、焼け出されたことなんかなんのその、うれしいばかりで走り回り、家の焼跡へ行っては、いろいろなものを掘り,喜んでいた。原爆 二次放射能、その恐ろしさがわからぬ情けなさ、こうしてペンを走らせていても、悲しさに涙が出て口惜(くや)しさがいっぱいである。何のために疎開させていたのやら、風邪くらいにと思っていたのに歯ぐきが腫(は)れ、「水をください、水をください。」といいながら、11月17日に死亡した。

  何にも知らぬ幼子が原爆の恐怖にさらされ、尊い犠牲となったのです。写真1枚手許(てもと)になく、ただ疎開先に面会に行ったときの嬉しい喜びの顔を思い浮かべている。親の私が生きているうちに、みなさまがたのお力で、教師とこどもの碑ができることを心より喜んで感謝いたします。

吉田ハルエ(広島市双葉の里)記

被爆死
吉田自成(白島国民学校6年生)