15.かあさん、家に帰りたい

  私、松下正那の母でございます。

  観音(かんおん)第二国民学校在学中、学徒動員として熊野製缶に勤務しておりました。雨の降る日も風の日も休まず、国のためにと言って毎日を続けておりましたところ、7月の中ごろから、からだがだるそうにみえ、帰るとすぐに大きなためいき。また、からだを横だおしにして、何かほしいと言いましても、何も与えてやるものもなく、毎日おそまつな弁当だけで、ひどい暑さ、勤労のはげしさ、すい眠不足、栄養不足で、小さなからだに無理があったと思います。

  ある日のこと、一度吉野医院に連れて行き、みていただいたところ、本人には言われませんでしたが、私には、少し胸が悪いから休まれた方がよいと言われました。それで私は、「正那ちゃん、からだが悪かったら、4〜5日ほど休んだ方がいいんではないか。」と言いましたら、「そんなくじけたことは言うものではない。僕はどこで倒れても、国のために働くのだ。」といって毎日を続けておりましたところ、8月6日原爆にあい、ヤケドし、何かでケガをした切り傷で血まみれになって、中野寛之さんに連れられて帰宅しました。

  急いで吉野医院に連れて行きましたところ、白血球が10500もあり、それで翌日からは通院できず、往診していただいておりました。

  からだの弱ったところへヤケド、ケガのため、だんだん衰弱がひどくなり病気は悪化するばかりでした。それでまた、近所の三菱病院に行っておられた間屋先生にも診(み)ていただいておりましたので、2人の先生の話し合いで、どうせだめだとは思うけど、畑賀(はたが)の国立病院に入院させるようにといわれ、さっそく手続きをして入院しました。

  そして、半年ばかりしましたら少しよくなりましたので、「家に帰りたい、帰りたい。」といっておりましたので連れて帰りましたが、また病気は重くなるばかりで、昭和23年1月11日に、看病のかいもなく死亡いたしました。

松下ハマノ(広島市江波南)記

被爆死
松下正那(第二国民学校高等科2年生)