16.小さい骨を少しひろいて

  このたびはいろいろとおせわさまになり、まことにありがとうございました。原爆の日のことを思い出すのは、身も心もぞっとしてきます。ちょうどあの朝、信行はいつものように早起きをしました。

  あのころは思うような食事もできず、ほんとうにかわいそうでした。「おかあさん、きょうは下駄(げた)をはいて行く。」と申しますので、下駄の台と鼻緒(はなお)が手にはいっていたので、さっそくたててやりました。服は洗濯した半袖で白に縞(しま)の服で、ズボンは半ズボン、色は黒色でした。上服へは名まえをはっきり書き、下駄をよろこんではいて、毎朝出かけるのに、口ぐせのように「おかあさん、僕どこで死んでも泣いたらいけないよ。おかあさんが泣いたら僕も泣くよ。」と申し、また、どこでどんなめにあっても連れて来てもらわねばならんからと、いつもにっこりして笑う顔を今でも思い出しては、主人とかわいそうなことをしたと申しております。

  家を出たのが別れになろうとは思いませんでした。学校は東白島(ひがしはくしま)町内で、白島国民学校年生でした。私の家は西白島町で、ボクが家を出てしばらくして大きな物音がしました。すると、庭の松の木が真黄に見えまして、そのとき主人は台所に腰をかけて靴を片方はいたところでした。私は主人のところで立っていましたが、何だか目の前がふらふらしてきて、主人は自分の家がやられたというが早いか、2人は台所の板の間に顔を伏せ、しばらく何もおぼえませんでした。主人が先に気がついて私に声をかけますので、私も気がついて目をあけますと、主人は頭から血を流していて、さっそくタオルでふきとり、2人は外に出ました。

  と、見れば近所の家はみなたおれ、助けてくれえの声ばかり。家は隣が2階建て、裏が2階建てで私の家は平屋でしたのでくずれず、下敷きにならず、近所の人を救い出しておりますと、人はみな自分の身がかわいいやら、口ぐせに、にげろ、にげろと言って、人を助けるどころか、にげる人ばかりでした。私はお隣の奥さんと子どもを連れて、主人といっしょににげました。途中、ボクが気になるので学校へたちよりましたら、よりつかれず火の海でした。隣の奥さんと子どもは、知り合いの人と会いましたので、途中で別れました。

  それから、ボクを毎日のようにさがしあるきましたが見当たらず、あれでもだれかに助けてもらっているのではと思い続けていました。私の家はみんな焼け野原になって、きれいに灰になりました。主人と学校へ参りまして小さい骨を少しひろい、私の伯父が古市(ふるいち)におりますので、しばらく厄介(やっかい)になりました。

  今では長男、次男、三男、と家を建てて暮らしております。私は主人と五日市町で古い家を29年に土地付きで買いまして暮らしております。主人も私もおかげで病気も出ず、主人は町内のせわをして、2人が御念仏を喜ばせてもらっております。このたびの碑ができて、亡き信行もさだめし喜んでいることと思います。

小笹あきよ(佐伯郡五日市町揚下)記

被爆死
小笹信行(白島国民学校2年生)