12.おかあちゃん生きててね と・・・・・・

  あの8時15分、思い出したくもない8月6日の8時15分、子ども、静子は焼けながら腕の皮、顔の皮、首の皮をむしりながらわが家に帰って来た。でも家は、吹き飛んで影も形もなく、とほうにくれていた。隣の娘さんに声をかけられ、われに帰った私もかけより、学校に行くときのすがたはなく、焼けはれたわが子をぼうぜんと見守り、どうするすべもなく、それから幾時間すぎたことでしょう?・・・

  広島市外、そこにある救護所は、毎時間に何百人もの人々が死んでいくのを助けるのに、無力であった。8歳になる静子は死に瀕(ひん)していた。しかし、だれも、静子が泣いたり不平を言ったりするのを聞いたことがなかった。静子はたえず、水をくれ、水をくれと、水を求めた。私は水を与えれば、余命いくばくもないと知りながら、娘に水を与えた。娘が死んでいくのを少しでも楽にさせてやっていいのではないか?

  「おとうちゃんは(父は当時太平洋諸島に駐屯している水兵の1人であった)故郷からずっとはなれた危険な所にいるのだから。」

  と、あたかも幻におとうさんを見たかのように静子は言った。

  「おかあちゃん、生きててね。もし私たち2人とも死んでしまったら、おとうちゃんはきっと淋しいでしょう。」

  静子は、静子の全部の友だちや親類の人々の名前を口にした。静子が祖父母の名を口にしたとき、静子は、

  「おじいちゃん、おばあちゃんは、とても私によくしてくれた、かわいがってくれた。」

  といった。静子は、おとうちゃん、おとうちゃんと呼んで息絶えた。

井浦富貴子(広島市平野町)記

被爆死
井浦静子(白島国民学校2年生)