19.とうとう逝った常夫

  私は、主人と子どもを早くなくし、三男と四男と4歳の長女と、貧しく暮らしていました。四男は、学童疎開比婆郡(ひばぐん)に疎開していました。三男常夫は、第二国民学校高等科2年生でした。学校から、南観音(みなみかんのん)の昭和大橋西詰の鋳物(いもの)会社へ、学徒として通っていました。

  昭和20年8月6日午前7時45分ごろ、友だちといっしょに元気よく、「行ってきます。」と出かけました。まもなく、飛行機の爆音が聞こえ、空襲警報(くうしゅうけいほう)のサイレンが鳴りましたが、まもなく解除になり、ほっとするまもなく、また爆音がしましたので、出てみると、大きな音がして青い火が見えました。隣の主人が助けてくださいましたが、頭を強く打って気がとおくなり、気がついてみたら、どこを見ても家はつぶれて、火が出ている所もありました。

  常夫が心配で、おろおろして待っていましたら、ヤケドをして帰ってきました。「何もいらないから、早く逃げよう。」といって、3人で市商業学校まで来たら、常夫は「歩かれない。」といいます。るカヤと敷布団(しきぶとん)を持っていたので、シーツを破り、防水の水をつけてホウタイをし、ふとんを背中にして常夫を肩にすがらせ、4歳の長女の手を引いて、生きた気持もなく歩いていると、通る人が、「兵隊さんが手当てをしてくれるから。」と教えてくださいました。何時間かかかってたどりつきましたが、ヤケドやケガ人がいっぱいで、なかなかみてもらえず、クスリもないとのことでした。待っているうちに、飛行機が何回も飛んできましたので、防空壕の中にはいったり、出たりしました。防空壕の中は暑いので、ヤケドがうずくといい、治療がすんで三菱の社宅の空家に避難したのが午後10時ごろでした。

  ところが、畳(たたみ)もなく、荒 ムシロでした。たくさんのケガ人が荒ムシロであちこちをこすり、死んでいくのを見て、かわいそうでなりませんが、どうすることもできません。常夫は、からだにウジがわいて、痛いといって泣くので、竹のヘラを作り、足のところの皮を破り、上から押して下のところで出してやるのです。それを毎日毎日くりかえしました。

  8月19日に兵隊さんが来て、「われわれは国に帰るから、ここにいてもみてもらえない。国民学校に送ってやる。」といって、タンカにのせて送ってくださいました。学校では、屋根がとんで、雨が降ると雨もりがして、寝る所もなく、ケガ人をあちらにひこずり、こちらに移したりしました。

  こうした看護のかいもなく、昭和20年8月28日午前11時58分、14歳の若さで死んでゆきました。親として、戦争さえなければ、こんな子どもまでむごい死に方をせずにすんだのにと思い、これからはなにとぞ、平和な生活が出来るように、みんなで平和を祈りたいと思います。

森 あきを(安佐郡佐東町緑井)記

被爆死
森 常夫(第二国民学校高等科2年生)