14.“行ってくるよ”が最期に

  再三のお便りいただき、1日も早くお返事をと思っていましたが、昼は仕事、夜分は疲れて、気になりながらも、きょうまでのびのびになったことをお許しくださいませ。

  じつは戦争中、主人が病気がちでたいへん困り、大阪から私の実家である広島に帰り、主人は死亡いたしました。そのようなぐあいで、当時白島(はくしま)国民学校2年生の田口勝水(当時9歳の男)は、何かと友だち仲間にも不なれのため、学童疎開(そかい)にも出さず、父のない淋しい親子暮しでいました。ちょうど当日、警報が解除になって、「おかあさん、学校に行くよね。」といって家をとび出したのが、子どもの声の最期になりました。人のうわさに、「田口君は建物の下敷きで焼け死んだよ。」と聞き、さっそくその場所に行ってみましたところ、小学校2年生くらいの白骨が見つかり、その骨を集めて帰り、現在お祀(まつ)りしています。

  まだまだ、たくさんお書きして聞いていただきたいことは山ほどありますが、もうこれ以上は目頭(めがしら)がくもって書けません。また次のときに、何かお役にたてばと思っています。どうぞよろしくお願い致します。

田口静子(広島市大手町)記

被爆死
田口勝水(白島国民学校2年生)