20.遺髪を刈って別れを告げる

  大東亜戦争中、国民総動員令とこれに続く国民学校教師生徒動員令のもと、毎日のように、酷暑(こくしょ)にもめげず早朝より家屋の疎開(そかい)作業に家を出て行くとき、昭和20年8月6日午前8時15分、作業にかかる瞬間、飛行機は1発のせん光を残して去る。今に知る原子爆弾である。爆風で建物はふきとび、火災がおこり、暗黒化した。そして、家に職場にいた人々は、このせん光をあびて何万人の死者はどことなくごろごろと倒れて、目のそむけようもなかった。

  私は軽傷で、雑魚場町(ざこばまち)で作業中の娘を尋ねはじめた。広場や形のある病院などさがしたけれど、いっこうに見あたらず、4日間、人々に尋ねたり、問うたり必死の気持ちであった。陸軍の運輸部にたくさんいたとのこと、そこへ行ったら、似島(にのしま)の検疫所へという話をもとに、検疫所へ行く。1病棟から数え数えて10号病棟へ行き、娘を確認した。見れば全身ヤケド、目もあてられぬ姿。涙もかれて出ない。こんな若い学生をこんな無惨(むざん)な目にと、戦争のやり方を非難する。からだは2センチから4〜5センチの火ぶくれ、なぜ助かりましょう。可愛さ、悲しみ、苦しみ、なんにたとえようもない。

  これを書くにも、ただ涙がこみあげる。何百何千人の子どもら、水、水、水というのに、水を飲ませてはいけないとのこと。からだも素はだか、着がえを持って行き、着せようとしても、からだは焼けただれて着せられない。食器もない中で、バケツの雑炊(ぞうすい)をと、何とか少し与えた。 カンフル注射や薬といっても、医者や看護兵も手がなくて、どうしようもない。板張りの上に、荒コモを敷いた上に寝させるだけ。なにしろ突然のことだけに、ただ泣く声、声。この凄惨(せいさん)さを・・・・、かわいそう。

  母と中3の兄の宏にも会わせたく思い、約束して気にかかりながら別れ、連絡に帰った。しかし、思うように帰ることもできず、やっと運輸部宇品(うじな)駅について汽車にのり、でも途中動かなくなって気ばかりあせり、歩き始めた。7〜8キロも歩いて夕方、妻や兄に伝えてやり、すぐしたくして 宇品港に行ったが、軍は船を出してくれないとのこと。妻も、焼けただれたからだにむちうって来たがこのしまつ、宇品の 防空壕(ぼうくうごう)に臭い痛むからだをこらえて夜明けを待った。そして、やっと船に乗れ、検疫所10号病棟の娘に会うことができた。

  そこで、これまでのいろいろな苦しみを話すうちに、午前10時前に何だかようすが変わって、あれよこれよという間に、かわいそうにもどうでしょう、命を戦争に奪われてしまった。この子、母、兄ともに、どんな気持ちであったでしょう。でも、遺体も自由にならず、遺髪(いはつ)を刈って別れを告げ、8月14日に遺骨にして渡すからと、名札をもらって帰りについた。8月14日、わたしは妻の実家、二・三女の 疎開先から13〜4キロの道を歩いて、遺骨を似島へ受け取りに行き、所のお寺様にお経(きょう)をあげていただいた。

  また、わたしたちには、今1人の乳児、娘(弘子)のかわいがっていた赤ん坊が、家の下敷きとなって焼死した。これは、母が背負っていたのを空襲もやんだと居間におろして、家の掃除をしかけたとたん、爆風で家も倒れて親子は別々になり、母も2階建ての下敷き。手のつけようもなく、全然位置の変わったところにとばされて、負傷をこらえてさがしたがわからない。暗がりの中で、むろん方角もわからない。どうにか比治山(ひじやま)へのがれてきたが、半身大ヤケド。着衣も焼けただれ、夕方、市外の妹の家まで行き、せめてもと乳児の遺体を尋ねさがしたが見つからない。泣きながらに焼あとの土を求めて、悲しい情けない怒りの思いでいっぱいでした。

  妻は、ヤケドも重体であったが、薬もないので、長い月日を広島仮保健所まで薬を求め、10何キロの道を歩いて通いました。この無念さはどうでしょう。26年を迎えた今なお、年とともにからだの不自由さは続いております。

  現在、世界の 核保有国は、広島・長崎のありさまを見、世界の平和、人類の幸せのため、絶対核の保有はやめてくれるよう、政府外交の名において世界に訴えてください。核は、世界絶滅の武器です。このような犠牲者の死をむだにしないよう、世界人類の平和を祈ります。何よりも被爆者の命をかけたこのありさまを、永遠に伝えていただきたいと思います。

加川 白美(広島市皆実町)記

被爆死
加川 弘子(千田国民学校高等科2年生)