17.文彦のこと

  『馬車は、次兄の一家族と私と妹を乗せて、東照宮(とうしょうぐう)下から饒津(にぎつ)へ出た。馬車が白島(はくしま)から泉邸(せんてい)入口へ来かかったときのことである。西練兵場(れんぺいじょう)よりの空地に、見憶えのある、黄色の、半ずぼんの死体を、次兄はちらりと見つけた。そして彼は馬車を降りて行った。嫂(あによめ)も私もつづいて馬車を離れ、そこへ集まった。見憶えのあるずぼんに、まぎれもないバンドを締めている。死体は甥(おい)の文彦であった。上着はなく、胸のあたりに拳(こぶし)大の腫(は)れものがあり、そこから液体が流れている。真黒くなった顔に、白い歯が微(かす)かに見え、投げ出した両手の指は固く、内側に握り締め、爪が喰い込んでいた。その側に中学生の屍体(したい)が1つ、それからまた離れたところに、若い女の死体が1つ、いずれも、ある姿勢のまま硬直していた。次兄は文彦の爪を剥(は)ぎ、バンドを形見にとり、名札をつけて、そこを立ち去った。涙も乾きはてた遭遇(そうぐう)であった。』原民喜作「夏の花」より)

  これが済美学校(せいびがっこう)1年生、原文彦の悲しい最期であったが、原爆記録文学として世界の国々のことばにも訳された「夏の花」に、フミヒコの名は残されて原爆の惨禍(さんか)を今も訴えつづけている。年毎に、めぐり来る8月6日。何年たってもあの日の情景が眼の前に甦(よみが)える。そして年老いた妻とともに、おとずれる西練兵場一隅の済美学校の跡には、石の門柱だけが淋しく残っていた

  

  水を水を 水いかばかり欲しかりし 塚にしみこめ かなしきこの水

  原爆に むなしく ないし 子を呼べば せきあえぬ わが涙なりけり

  原  邦 彦

  弟『文彦』が生まれたのは昭和14年1月23日、戦争はますますエスカレートし、物資の欠乏した時代で、3人の兄のお古ばかりを着せられ、生まれた時からミルクは 配給、砂糖などは貴重品、甘いお菓子の味も知らずに、いつも 代用食ばかり食べて育ちました。兄弟仲よく遊んだこともありましたが、けんかのときは、上の兄たちに泣かされてばかりで、彼は常に損な立場でした。

  昭和20年にはいり、戦争は深刻な事態となって、日本も敗けるのではないかと思われるようになりましたが、私たちは、ただ勝利だけを信じて毎日をがんばったものでした。

  長男の私は、中学1年に進学しましたが、連日建物疎開(そかい)の動員作業にかり出され、くたくたになって帰宅しました。その下の二男、三男は、それぞれ小学校5年生と3年生で、双三郡(ふたみぐん)の奥の河内村(こうちそん)と君田村(きみたそん)に分かれて、遠く親元を離れて 集団疎開で行ってしまいました。家に残された幼い子どもは、1年生になった文彦と、5歳と3歳の2人の小さい妹たちでした。

  夜になると、空襲警報(くうしゅうけいほう)が発令され、そのたびに、市内は危険だというので眠たがる弟や妹たちを引きつれて、私たちが住んでいる上柳町(かみやなぎちょう)の家から栄(さかえ)橋を渡って牛田(うした)方面の川土手に向かい、その草原で1夜を明かす日々が続きました。

  昭和20年8月6日、私は国泰寺町(こくたいじまち)方面の中学校(爆心地から約1000メートル)の校舎の中で被爆、文彦は八丁堀方面の小学校(爆心地から約700メートル)に行って被爆しました。

  私は、倒壊(とうかい)校舎の下敷になりましたが脱出することができ、幸いに無傷でした。外で作業をしていた他の級の人たちは、全身にヤケドで、ほとんどその日のうちに亡くなられました。私は火と煙の中を、倒れた建物を乗り越えて、命からがら逃げ、夕方には広島駅までたどり着き、いっしょに逃げた友人とともに、本郷(ほんごう)の友だちのおばあさんの家に行きました。

  広島のあの恐ろしい1日のできごとは、いつまでも忘れることはありませんし、文や筆で書き表わそうとしても、書ききれるものではありません。私はその日、一刻でも早く広島を離れたいと思いました。その後、友人の家でおせわになって1週間くらいして広島に出、私の家族の避難先を知って、佐伯郡(さえきぐん)八幡村にいた家族の所に帰ったのです。

  家に帰ると、父は顔と背中にヤケドを受けて伏せて寝ていましたし、2人の妹たちは手や首にヤケド、お手伝いのおねえさんは上半身ヤケドで、室内は異様な臭気が立ち込め、ハエが傷々に群がって、幼い妹たちは、「痛いよう、痛いよう。」と泣き叫んでいました。母が泣きながら、「文彦が死んだんよ。これしか持って帰れなかったんよ。」と、ちり紙に包んだ米粒のようになった“爪”を見せてくれました。

  聞くと、家族たちは被爆後、上柳町の自宅から泉邸(せんてい)に逃げ、そこから小舟で対岸に渡り、東照宮に行って2夜を過ごし、本家のおじがやとってくれた馬車に工場の人々といっしょに乗って、常盤(ときわ)橋を渡り、白島(はくしま)線を通り、紙屋町から鷹野橋方面に向かい、住吉橋を通って避難先の八幡村へ行く途中、白島線の泉邸附近で、文彦が女の人と中学1年生くらいの男の子に囲まれて、3人で死んでいたのを父が見つけたそうですが、馬車は負傷者でいっぱいで、遺体はつれて帰ることができず、しかたなく爪をはいで帰ったそうです。

  文彦は、こぶしを爪が肉に食い込むほど固く結んで、腹のあたりから内臓を噴き出し、両足をピンと突っ張って横たわっていましたが、死に顔は安らかに眠っているようであったそうです。女の人や中学1年くらいの男の子は、顔などが焼けて判別がつかぬほどになっていたそうです。男の子は、修道学園のバックルをしていたということです。あとで推察するのですが、女の人は文彦の担任の難波先生で、男の子は私の友人の山口君ではないかと思うのです。

  学校で被爆したとき、文彦が腹に負傷して倒れていたのを、難波先生がつれて脱出してくださり、途中で八丁堀附近に住んでいた山口君に出会って、お互いに顔見知りなので助けあって逃げるうちに力尽き、煙に巻かれて、3人とも倒れて死んでしまったのではないかと思うのです。

  文彦が死んで長い年月が過ぎ、私も原爆症で死にかかって九死に一生を得たりして、いろいろなできごとがありましたが、26年もたってしまった今でも、彼の面影(おもかげ)はいつまでたっても、あの幼い可愛らしい子どもの顔のまま、私の心の中に残っております。

  あの無益な戦争ではありましたが、戦争中、国を護(まも)った人々には、国からその功績に対して何らかの志が表明されておりますが、国に護られるべき人々は、殺されっぱなしで何も報(むく)いられることもありません。

  “原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑”は、報いられることのなかった人々のせめてもの願いとして、核兵器を禁止し、世界に平和が実現されることを強く呼びかけているのです。

原 守夫(広島市本通)記

被爆死
原 文彦(済美学校1年生)