10.あの日と子どもとの別れ

1 子どもとの別れ

  8月6日朝、静かな7時ごろ家を出るとき、戸口で息子が、「とうちゃん、僕も行く。」とついて来たので、白神(しらかみ)停留所でいっしょに電車に乗った。しかし、腰をかけたかと思うと急に息子が、かあちゃんが心配するからといって、電車から降りてしまった。親と子が車の上と道路上で手を上げて別れたが、私が生きている息子と会話したのは、これが最後になるとは、だれも知ってはいなかったであろう。

  26年を過ぎても、未だ忘れる事のできない悪い朝であった。的場(まとば)停留所にて下車、東警察署前に出たところが、町名、組名を記した旗を先頭に、人の列と荷車や大八車(だいはちぐるま)の列が200メートルばかりも続いていた。勤労奉仕隊の人たちで、西方に向かったこの多くの人が、ほとんど同じ時刻に被爆したわけだが、どこでどんな目にあわれたやら、思えばゾッとする死の行進であった。

2 ガラス入りの爆風の洗礼

  私は勤務先の国鉄検車事務所に着き、暑いので上半身裸になった。その瞬間、その時である。「パン」と大きな音、なにかと家外の空を見上げれば「ピカ、ドン」と大きな音、ガラガラと建物の崩れる音、驚いて伊藤課長さんと私は、近くの北出入口に向かったところ、北からの風、ガラス破片のまじった爆風を上半身に受け(私の肩のガラスは、23年にガラスをほり出していますが、頭のは今もっていつも出ます。26年たった今日、いまも4カ所ガラスがのぞいて手にかかります。米粒くらいのがいつでも出ます。)2人は中腰になったまま、どうすることもできない。目もつむっていた。

  風がやみ、腰をのばしたが、頭からは血が落ちる。上半身はちかちか、手を肩にやればざらざら、手のはらは傷だらけ、またもや空襲(くうしゅう)のサイレン防空壕(ぼうくうごう)にはいった。そのとき、伊藤さんの頭の出血がひどく、(2〜3日後にはあの世に行かれたとのこと)「カイジョ」のサイレン防空壕から出た。私も出血がひどいので、小石を傷口に、シャツをさいて鉢巻(はちまき)、そのまま線路上に倒れた。ふと目をあけ、西の方の空を見れば一面に黒い空、私の頭の中は家族のことが心配、我が家へ向かう。

3 燃える町の中を

  猿侯橋(えんこうばし)東端の岸に出た。建っているもの、家も立木も何もない。己斐(こい)方面も宇品(うじな)方面も煙でうすぼんやりしているだけ。町の中は燃えている。暑い、どこを通ってきたか(今日までわからん)白神社(しらかみしゃ)までかえったところ、電車が南東に向かって線路から10メートルばかりも吹き飛ばされている。死体はあちこちにも、何ともたとえようもないむごい姿でころがっている。

  地獄とはこのことか、我が家の息子を気づかう私。家に着いたが燃えたあとには何もない、だれもいない焼野原。せめて息子と妻の死体はと、むちゅうで探すがおらん。万代橋(よろずよばし)通りに出た。向う岸の下が(県庁前川岸万代橋西詰)赤い明るい夕日のようだ。

4 県庁前の川岸は赤い

  よく見れば、多くのケガやヤケドをした裸の人たちが、水ぎわから上に向かっていたので赤く見えるのだ。県庁などに勤めていた人や近所の人もおられるであろう。東詰橋上を見れば、60歳くらいの男、白い20センチくらいのヒゲ、杖を放り出し、西方に頭を、南に顔を向けて死んでいる朝鮮人。川岸下におりたタイ国留学生2人、南を向いて、立て膝をして橋下を見ている。その方にはと見れば、ブリキのトタン板の下で若い女性が2人、裸で(日本発送電社事務員であろう)うめいている。その横に40歳くらいの男も、別のトタンで裸をかくしている。着ていたものは爆風でなくなったのである。少し離れた水たまり(水は2、30センチ)に6、7人の男女が、水もないのに、あぶないあぶないともがき苦しんでいる。

  私は、息子はおらんかと岸にあがる。下手には7丁目自転車屋鉄田がうめいている。「小林」と私を呼び、おこしてくれという。よく見れば、頭に4センチくらい、コの字形の傷を受けて苦しんでいる。しかし、傷口はほこりで白い。苦しいといってうめいている。水をくれ! 川の水面を見れば、油のように光ってぬるぬるしている。人間の油であろう。舟が来た。急ごしらえの旗に何々と書いて、○○やーい、○○やーいと悲痛な肉親を求める必死の声。次から次から、あとからあとから川下へ去って行く。午後6時半ごろであろう、夕やみがせまる市役所前に来た。左側の掲示板の下には、大きな男子がきつね色にこげて(顔はわからない)死んでいる。裸。公会堂建物疎開跡(現在の道路が公会堂の庭で、大きな池があった。今の福祉館と原爆センターは公会堂建物の跡である)入り口から多くの人が横になって、水をくれい、水をくれい、といっている。私の近所の人も20人ばかり倒れて、私の声で、「小林、水を」というが、(水を飲ませば悪いと以前からの教え)水をあげられないのが私は苦しかった。

  水を求めて池に入っていく。池に顔をつけている人、池には3人ばかり浮いていた。水をくれい、苦しい、と、まさにこれが生き地獄とは。生き地獄、神仏、ご加護(かご)あれと、祈る心もむだのようす。

5 軍歌の声で

  ケガをした人もヤケドをした人もうめいている。私はふと思い出して、米2合を取り出しておも湯にして、みなさんにあげたが、だれも口にしない。焼野原になった広島も日は暮れ、夜8時ごろのこと、千田町(せんだまち)方面から軍歌の声がする。声をきき、泣きよろこんで、涙が出てとまらない。山口県室積(むろづみ)の船舶(せんぱく)の兵隊さんたち7〜8人が来て、みんなを励まし、「カマス」から乾パン配給。空(から)のカマスは担架(たんか)にしてケガ人をつぎつぎと日赤へ、今度は宇品へと、病人をリレーで運ばれた。人々は、後日に江田島で元気に助かった人が多く、あのときの兵隊さんのことを忘れることはできない。

  後に残った人々は重病人ばかり、息を「ヒキトル」人4〜5人、夜もふけてなまぬるい風、空はくらい。青白い火の玉がふわりふわり、今日1日のことは全く夢のよう。公会堂跡での1夜を。この所におられる人は、雑魚場町(ざこばまち)の一部の人、大手町7、8丁目の人たちである。そのうちに東の空が明るくなった。

6 肉親の情

  7日、きょうは幸雄と妻をさがすべく、さがさねばならん。私は腰をあげた。7日、8日、9日、10日すぎてもわからん。私もきょうまで何も口にしないでいるので、腹はすくが口にするものはない。

   11日の朝7時ごろのこと、妻は工場近くの焼あとで死んでいた。キツネ色にこげていた妻は、幸雄を探している途中、力つきて倒れたのであろうと思う。ふと私の工場の南西に、壊れた瓦(かわら)が一面に積もっている一部分がうず高くなっているので、瓦をのぞいてみると、幸雄だ! おったおった。おりしも近所の小田さんが突然来た。小田の息子と幸雄が、抱き合ったかっこうで死んでいる。2人とも手足は焼けたのか無い。ズボンのバンドはそのまま残っている。むちゅうで抱く私。

  そのうちに小田さんは息子を抱いて帰ったところへ武井の父親が来た。だれも知らせないのに、これが肉親の血というのであろう。幸雄は、武井(当時県工の先生)の二男に生まれたが乳児のとき、私の養子になり、私と妻が一心に育てた子だった。武井と私とで幸雄は焼いたが、知らせもしないのに2人の子どもの父親が同時に集まるとは、肉親の血はあらそえない。

  後日思えば、ピカドンとは当時のようすをよくいった。あの原爆によって多くの人々の苦しみ、死亡された犠牲者、私どものような生き残りも、一生忘れることはできない。当時の惨状は実に悲惨というか、あわれというか、書きつくせない8月6日であった。生き残った私どもも、日々からだが悪いので苦しんでいる。

小林岩吉(広島市土橋町)記

被爆死
小林幸雄(大手町国民学校3年生)