8.あのときのままのボクたち

  26年と言えば長い年月のはずなのに、ふりかえってみると、私にはついこの間のことのように思えます。姉たち1家族6人が死亡した日―。あのいまわしい8月6日が、またやって来ます。あの日の朝、私はみんなとともに朝食をとり、出勤しました。これがこの世の別れになろうとは思いもしないで・・・。

  8時15分!あの閃光(せんこう)!一瞬にして広島は廃墟(はいきょ)の街と化してしまいました。当時、第二総軍司令部に勤務していた私は、部隊で被爆し、そのあまりの悲惨(ひさん)さにことばもなく、次々と市中からのがれて来る人たちの無惨な姿には、ただ途方にくれて見守るばかりで、それは筆舌(ひつぜつ)にはつくしがたいものでした。私は、鷹匠町(たかじょうまち)に居住していた家族の者が気になりましたが、すでに市中は炎の海となり、とても市中にはいれる状態ではなく、きょうは止めるようにと、上官からさしとめられました。その夜、府中にある高等官宿舎に泊めてもらい、やけおちてゆく広島の街を見つめながら、まんじりともしないで1夜を送りました。

  あくる7日、私は悲壮な思いで市中に入って行きました。相生橋(あいおいばし)を下り右折するのですが、瓦礫(がれき)の山で、どこから足をふみ入れてよいのやらわかりませんでした。やっと着いたわが家の跡は、無惨にも崩れ落ち、ただ1つ、床の間の大黒様(だいこくさま)が形を残して、ころりところがっているのが妙にわびしく目にうつりました。姉たちは家の下敷きになり、下の子3人は父母の名を呼ぶゆとりも与えられず即死。長男の久雄は、水が飲みたいといって、川土手の方にのがれたまま不明。私はさっそく川土手に行き、あちこちさがしたのですが、久雄の姿はありません。どこまで水を飲みに行ったのかしら。それとも、そこまで行くまでに倒れたのかしら。私は照りつける陽をうけ、暑さもいとわずさがしたのに・・・。

  その間、B29が不気味な爆音をたてて頭上を飛んでおり、私は生きた心地はしませんでした。「ごめんね、久雄ちゃん。」ぼくの姿を見つけることができないで・・・。きっと私のさがしようが足りなかったのね。ぼくは待っていたでしょうに・・・許してください。その幼いからだはなにを訴え、何を叫んで倒れたのでしょうか。何の罪もないぼくたちが、無抵抗のまま消えていったのです。熱かったでしょう。思いきり水が飲みたかったでしょう。何もしてやれなかった私の胸の中は、悲しみとくやしさでつぶれそうです。それでもいつか、私のところに、「おねえちゃん。」といってのがれて来てくれるのではと、はかない願いをかけ・・・待ちました。待って待って、待ちくたびれて・・・ぼくたちはとうとう来てくれませんでした。

  東京生まれのぼくたちが、広島に移り住むようになったのは、私が女学校に通っているころでした。幼いぼくたちがとてもかわいくて、毎日々々がとても楽しいものでした。「がっこう、ねえちゃん。」といって、なついてくれたぼくたち。でもときどき、いたずらをして、私とよくけんかもしました。あるとき、私が大切にしていたハーモニカを持ち出し、プープー鳴らしていたぼくを見つけ、私は家中を追っかけ回しました。「大きい者が小さい子を相手にして、みっともない。」としかられた私。あの遠い想い出が、いま目の前にボオッ!と浮かんできます。

  久雄が本川(ほんかわ)国民学校の5年生、正浩が3年生のころ、戦争は日々激しくなってゆき、久雄は三次(みよし)に学童疎開(そかい)しました。でも姉は、死ぬるときはいっしょの方がいいといって、ぼくをつれて帰りました。そんな姉を見て父は、姉たち一家を佐伯郡(さえきぐん)観音(かんのん)村に疎開させ、子どもたちの安全は守ってやらなくてはといいました。それなのに8月4日、全員揃(そろ)って広島に出てきたのです。父は何度も、「早く田舎に帰れ。」とすすめました。姉たちは、「もう一日・・・。」とのばしたため、人生をくるわしてしまったのです。父のいうとおりにしておれば・・・こう思うのは私のぐちでしょうか。残された遺品は手をつけるのがこわいほど、きれいに整理してありました。それを見て、また新たな涙が胸につきあげ、戦争にたいするにくしみがわいてきます。

  ぼくたちと同じ年ごろの人は、今ではよき父となり、平和な日々を送っておられます。でも私のなかのぼくたちは、あのときのままの姿です。「がっこう、ねえちゃん。」と呼んでくれた、あのころの姿がやきついています。今ぼくたちは、おとうさん、おかあさんと共に、この地の下に安らかに眠っていることでしょう。この眠りをさまたげないようにしてあげたい。私たちは、戦争というあやまちを、再びくりかえしてはならないと思います。

高島貞子(広島市観音町)記

被爆死
鈴木正浩(本川国民学校3年生)
鈴木久雄(本川国民学校5年生)