25.つぎはぎの学生服が唯一の形見

  原爆により犠牲になった克彦君、直通君、君たちは袋町(ふくろまち)国民学校であの魔の一瞬に遭遇(そうぐう)し、ついに行方不明となりました。おとうさん、おかあさん、また県女1年生で建物疎開作業に行っていた君たちの姉、4歳になった妹も全部死亡し、おばあさんと兄の私と2人きりになりました。おとうさんは8月12日玖波(くば)で、おかあさんは14日に親戚で亡くなりましたが、君たちと姉さんは、どこでどんなに苦しんで死んだものか手がかりがつかめぬままです。1番下の妹は数週間の後、元の店先跡で小さな骨が見つかり、それと判断しました。おばあさんは親戚近くで助かり、私は修道中学3年の学徒動員で淵崎(ふちざき)へ行っていたため、難をまぬがれました。ところが、そのおばあさんも26年に老衰で亡くなり、私1人きりとなりました。

  広島は原爆で瞬時に焼野原となり、その状況は凄惨(せいさん)を極め、今までおおぜいの人がいろいろと表現しておりますが、これとてもまだ十分(じゅうぶん)には言いつくされてはおりません。まさにこの世のできごととは考えられませんでした。被爆で死亡した人数は、20数万ともいわれ、また最近になってわかったのですが、当時市役所が調査した資料によれば11万余ともあり、これもまた実際の人数ではないようです。現に4分の1世紀を経た今日でも、被爆が原因で床に臥(ふ)し闘病(とうびょう)生活を続け、さらに不幸にも亡くなられていく方々がおおぜいおられるのが実状です。広島に続き長崎も原爆攻撃をうけ、日本は戦いに敗れ、国土は全く荒廃しましたが、26年後の今日、広島も含め、日本全国が想像をこえる繁栄をみております。君たちの犠牲により、ようやく平和がもたらされたわけで、たいへん悲しいことです。

  各種の公害、交通戦争ということばまで出るような現象を伴(ともな)ってはいますが、当時、戦争に勝つために、みんなが自分を捨てて悲壮な姿でがんばったことを思えば、文字どおり平和そのものです。

  あの前日、夜おそくまで家の近くの建物疎開のための取りこわしを、そばでいっしょに見ていたのを覚えております。またその夜中に空襲警報(くうしゅうけいほう)が出たので、私はいつものとおり学校防衛のためにかけつけ、間もなく解除で帰宅した時、寝もせずにいた君たちに、「また警報が出たらすぐ起こしてあげるから寝ていなさい。」と声をかけたのが最期となりました。最近になって、あのとき袋町国民学校の地下室にいた人のうち、3人がようやく逃げのびて、今でも健在であることがわかりました。おかあさんは翌日学校へ行ってみたそうですが、もとより判別のしようもなく、疎開していた荷物の中にあったつぎはぎの君たちの学生服が、唯一の形見となっております。

  毎年、平和公園慰霊祭(いれいさい)が行われますが、あの慰霊碑に納められてある過去帳が公開されてあったとき、ちょうど家族の名前が記入してあるページが開いてあったことがありましたが、これも何かの因縁(いんねん)と思っています。近年、毎年のように当時の死没者の名簿が次々に発見され、公開されるので見に行きますが、全然見当たらず諦(あきら)めています。

  当日の朝、直前まで家におり、現在も同じ場所に住んでいるのは、近所ではどうやら私1人だけのようです。少数の生き残った人々もみなそれぞれ事情もあり、住居を変えておられます。偶然、わが家の焼跡あたりの写真が原爆資料館にありますが、最近複写したものを入手しました。家の門口にあった鉄の電柱が倒れたのがあるので判断がつきます。

  私は翌朝、焼跡に行ってみましたが、まだ灰の中は火で、足をふみ入れることはできませんでした。それと同じ光景が再現されております。このようなおそろしい原爆や水爆をなお製造し、実験し、その保有を誇示している国々があるのが残念でなりません。

  現在、家族は親子4人で、元は金物店だったのを変えて洋品の専門店を営んでおります。長女の展子、長男の祥二、ともにそれぞれ袋町小学校を卒業し、今では女学院高校3年生、修道中学2年生に成長しておりますが、かれらが小学校時代には、ふと亡くなった君たちの生まれ変わりと思えてなりませんでした。

  しかし、2人はあの悲惨(ひさん)な戦争は知りません。おりにふれて写真で見たり、話に聞いたりする機会はありますが、実感はわいてこないと思います。今は多くの人々が、当時のだれもが考えも及ばなかった自動車のある生活、カラーテレビのある毎日など、さらには月世界にまで人間が行く時代になり、物質的には不自由のない暮しを送っております。

  あの時以後も、世界のどこかで戦いが行なわれ、特にベトナムでの長期にわたる戦争はいまだに止まるところを知りません。このようなとき、再び原爆を使用されたらと思うと、戦慄(せんりつ)を感じます。一日も早く、全世界の人類が平和な日々を送れるよう願ってやみません。

  さいわい、このたび関係者のみなさまのご尽力により「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」が建設されることになりました。ようやく、先生方や君たちの霊を慰めるよりどころができたことを感謝しております。

奥本 博 (広島市本通) 記

被爆死
奥本 克彦(袋町国民学校3年生)
奥本 直通(袋町国民学校1年)