27.五人の子どもを失う

  夫 福次郎は、昭和14年5月6日脳溢血(のういっけつ)にて死亡、当時46歳。このとき三男優は満2歳10ヶ月、五女映子は満1歳。私は昭和17年12月14日に初めて市役所統計課(とうけいか)へ勤務しました。優は6歳5ヶ月、映子は4歳7ヶ月のときで、2人を家に置いて勤めに行くのです。

  戦争は、だんだん深刻になって食糧難になり、1食分は外米と大豆を混合したものがお茶碗に1杯(8分目)くらい、ときには鉄道草と糠(ぬか)のまじったお団子を食べました。2つめは、咽喉(のど)がイガイガして通らないこともありました。1食分のお弁当を、2人はお昼前に食べていたそうです。夜は空襲がたびたびあり、寝まきを着ることもできず、そのまま寝ていて、空襲のたびに土蔵(どぞう)の2階へ避難(ひなん)しました。

  長男、三女、二男は偕行社(かいこうしゃ)の済美(せいび)幼稚園と学校へ行きましたので、優にも行きなさいといいましたら、袋町(ふくろまち)の学校で勉強した方がよいと、行きませんでした。3年生のとき、学童疎開(がくどうそかい)があり、姉兄に尋ねましたら不賛成でした。本人は、どちらでもよいといいましたが、けっきょく中止にいたしました。私の不在のとき、近所の方がよく物をくださり、たいへんお世話になりました。優は3年のときも級長で、小さいからだなのに大きな声で号令をかけておりました。幼児のときには、父によく肩車をしてもらったのですが、顔もほとんど知らない2人でした。夫が健在でありましたら、よろこぶことと、ふびんで涙がこぼれました。

  昭和20年8月6日午前7時ごろ、2人は仲よく、「行って帰り。」と学校へ行きました。私は8時15分、市役所の2階にいて、西窓の方からピカッ!と黄色の光線のため吹き飛ばされて下敷きになり、暗い暗い中で、今死んだらいけないと、ただ子どものことが気にかかりました。ようやく起きあがった顔や手や背中に、多くのガラスの裂傷(れっしょう)を負い、公会堂の池の中に避難しました。

  8月7日、子どもをさがしに袋町国民学校へ行きました。2階にも何も姿はなく、ご真影(ごしんえい)の前に2人の女先生の死体がありました。途中には消防隊義勇隊(ぎゆうたい)が遺体を集めて、本通りの角で焼いて処置していました。

  広島市・長崎市に多くの原爆死者が出、いまなお原爆患者が死んでいかれます。諦(あきら)めようと思っても、被害を受けた者には忘れられません。家屋は焼失、5人の子どもを1度に失い、生きる希望もなく、安らかに冥福(めいふく)を祈りながら寂しい孤独の生活をいたしております。

秋山 アサコ (広島市紙屋町) 記

被爆死
秋山 映子 (袋町国民学校1年生)
秋山 優(袋町国民学校3年生)