35.佳子よ安らかに眠って

  8月5日朝、「今夜は、学校の宿直です。」といって元気に出ていく娘は、「気をつけてね。」という私の注意をうしろに学校へ、この世の別れになるとも知らず・・・。私は娘の出たあと、戸坂(へさか)(現在・戸坂町)字狐瓜木(くるめぎ)の疎開先に、手に持てるだけのものを持って出かけた。その夜は戸坂で泊まるつもりで、東洋工業学徒動員で行っていた次女にも、戸坂に帰るよう約束をしていた。その夜の8時ごろでしたでしょうか、東胡町(ひがしえびすまち)の自宅で泊まることになっていた主人が来ての話に、夕方、学校からわざわざ佳子がきて、「おとうさん、今夜はあぶないということを耳にしたから、戸坂に行ってください。どうしたことか、気になってしかたないから知らせにきました。」というのです。

  翌朝早く、主人は自転車で自宅へ、だいぶおくれて出た私は、馬車で広島にむかう人に出会い、車上の人となった。ちょうど牛田町(うしたまち)天水(あまず)まできたとき、ものすごくピカッ!と光った。気がついたときには、馬も人もいない。私は土の上にうつぶせになっていた。広島の空は雲がかかったようにはっきりしておらず、火災がおきてものすごい火の勢い。主人と佳子の2人が広島に出ているのが気になりながら、とてもいま町にむかう場合でないと思い、戸坂に引き返した。午前11時ごろだったか服はボロボロになり、ケガをした主人が帰ってきた。白島(はくしま)の方で自転車がパンクしたので、自転車の修理をしてもらっているとき、家の下敷きになったが、どうやら出られたので、やっとボツボツ帰ったのだということ。

  広島の夜空は真赤でものすごく、娘の安否が気になるが、仕方なく眠れぬままにウトウトしたら、そのとき、まじめなものすごい顔をした娘が、恐ろしい勢いで私の胸のなかへはいってしまった。ハッと思ったとき目がさめた。ああ夢であったのか、ものもいわずにものすごい顔が、まだありありと浮ぶ。まっ暗で、時間はわからない。夜の明けるまで座っていた。その話をすると主人は、私の止めるのもきかず、さがしに出てしまった。

  それから娘の姿を求めて、あちこちをさがした。気持の悪いこと、恐ろしいこと、死人の間を娘の姿をさがし求めた。袋町(ふくろまち)の学校はもとより、東胡町(ひがしえびすちょう)の自宅へも帰ってみた。疲れ果ててしまった。肉親をさがす人、たまに知人に会えば、「生きていたの。」「お宅は、何人なくなられたの。」があいさつであった。そしてお互いに泣くばかり。戸坂にも、学校跡にも、病人の多いこと。ここにも娘はいない。死人を焼かれるのか、町内の方が薪を集めておられる。収容所ができた。今考えても、1ヶ所1ヶ所おぼえていないが、いちばん遠い所は、佐伯郡(さえきぐん)大野まで行った。このときばかりは、無理にお願いしてトラックに乗せてもらった。しかし、荷物のうえでとうとうがまんできず、途中でおろしてもらった。娘はもういない。戸坂の家を借りるとき、戦争がすむまでという約束を思い出し、日出町(ひのでまち)にこわれた現在の家を買うことにし、応急修理をして、やっと転宅したのが20年11月26日であった。

  12月も半ばすぎたころ、玄関(げんかん)の戸があいたので何の気なしに出てみたら、玄関の敷居(しきい)のすぐそばに、佳子が家をのぞくかのようなかっこうをして立っている。私は思わず、「佳ちゃん。今までどこにいたの。みんなでさがしていたのよ。」と大声でいったとたん、目がさめた。ああ夢であったのか、日出町の家を佳子は知っているわけがない。親恋しさに会いにきたのかと思うとたまらない。あれから25年、1度も夢をみたことがない。夢にみたい。あの子は目には見えないけれど、家に帰って私たちといっしょに生活をしている気持で、毎日を暮している。8月の夢、12月の夢、不思議でならない。今でもはっきりとして忘れることはできない。

  戸坂に疎開(そかい)したのは20年3月19日、敵機(てっき)の編隊(へんたい)が100機、広島の上空を通過したとき、戸坂のおばさんの所に疎開を頼みに行こうといったのも娘、おとうさんに戸坂へ帰るようすすめにきたのも娘、そのために3人の命が今日あるのは、みな娘のおかげ、かわいそうに、原爆が広島に落とされなかったら、こんなさびしい思いをせぬものを、何十万の尊い命を奪って、佳子よ、諸先生、子どもたちといっしょに安らかに眠ってくださいね。たびたび会いに行きますから。

熊谷 ハツ子(広島市段原日出町)記

被爆死
熊谷 佳子(袋町国民学校勤務)




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