笠岡 貞江 Sadae Kasaoka

一度に両親がいなくなった寂しさは、とても言い表すことはできません

4. 被爆後の暮らし

広島市内は食べる物もなく、再び空襲を受けるかもしれないので、祖母と弟と私は、久地にある姉・純子の婚家に疎開させてもらうことになりました。姉はカナダにいました。8月14日、祖母は横川駅前に馬車を仕立ててもらい、私たち3人は江波の家から横川駅まで歩いて行きました。私は、道ばたで壊れた水道管から吹き出している水を見つけ、水が飲みたくなり、そちらに向かいました。大きな通りでは死体は軍によってすでに片付けられていましたが、少し路地に入ると、被爆から1週間以上が経つというのに、まだ防火水槽に頭を突っ込んで亡くなっている人が、そのままになっていました。

水を求めて 絵:下向萌加

私が水を飲んだり、あちこち見回したりしている間に、祖母と弟は私を待つこともなく、馬車に乗り、そのまま久地に行ってしまったのです。なぜ祖母は私を待ってくれなかったのかは分かりません。もしかしたら、私が遅れたことに気づかなかったのかもしれません。しかたなく、私は一人で来た道を自宅まで歩いて帰りました。祖母と弟はその後数ヶ月間、その家でお世話になりました。

翌15日に玉音放送がありました。兄に、天皇陛下の大切な放送だからちゃんと聞くようにと言われて、必死でラジオに耳を傾けていましたが、ガーガーいうばかりで何の放送なのか分かりませんでした。兄に聞くと、「戦争に負けたっていうことよね!」と憮然とした口調で教えてくれました。

終戦から数日後、友人が、「学校に行ってみよう。」と誘ってくれましたので、進徳女学校に行ってみました。講堂のガレキを片付けていると、被爆から10日以上経つというのに、まだガレキの下には死体がそのままになっていました。

原爆投下後、初めて行った学校で 絵:永井攻

兄は、残された私たちの生活を支えるために、神戸の商船学校を退学することになりました。手続きのために一度神戸に行きましたが、帰ってくると海運局(現・海上保安庁)に就職し働き始めました。生活は大変で、私も海岸でカキを拾い集めて売ったり、家の畑になっていたイチジクを売ったりしました。

五日市の姉や神戸の姉や義兄は、私たちを心配してくれて、しばらく泊まってくれたり、何度も来てくれたりしました。義兄は毎週のように神戸から来てくれました。そして姉たちや義兄が、家のことや祖母、兄、弟、私の生活の世話や様々な手続きをしてくれました。私が自宅から近い市女(市立第一高等女学校。現・舟入高校)に転校できるように手続きをしてくれたのも姉でした。姉がいなければ、何をどうしていいのかすら分かりませんでした。おそらく学校に戻ることもなかったでしょう。市女では、教師、生徒の676名が原爆の犠牲になりました。1,2年生の全員が亡くなったと言われています。

一度に両親がいなくなった寂しさは、とても言い表すことはできません。友達が、何気ない会話の中で、「お父さんと○○へ行ったよ。」とか「お母さんに○○してもらった。」とか言うのを聞く度に、とても悲しい気持ちになりました。また家に帰って、「ただいま。」と言っても「おかえり。」という返事がないことが特に辛かったです。自然と友達とも会話を避けるようになりました。

市女は9月の半ばから再開することになりました。学校といっても、とにかく何もないところからのスタートでした。校舎も壊れたり、焼けたりしていて、何とか使えそうなところでの授業再開となりました。教科書もありませんでした。国語の授業では、先生が新聞の切り抜きを持って来てくださり、それを使って授業をしていました。和裁の授業もあり、自分でゆかたを縫ったこと、ピアノが焼け残っていて、みんなで歌を歌ったことなども記憶に残っています。

傾いていた自宅をなんとか片付けて住んでいましたが、原爆で医院と自宅を焼かれたお医者さんの家族に貸してほしいと頼まれ、寒くなってきたころ、私たちはノリの製造のための作業場にしていた建屋に引っ越し、自宅はそのお医者さんの家族に貸しました。短期間だということで、家財道具などは蔵に入れ、一年ほど家を貸していました。

被爆した時にガラスが刺さりケガをしていた頭は、髪の毛をとかす度にガラス片がとれ、傷も次第によくなりました。多分、翌年の春くらいには、すっかり治っていたと思います。ところがその夏、今度は体中に湿疹が出てきました。その湿疹からは膿はでませんでしたが、右の上腕あたりにできた一円玉ほどもある3つのできものが、どんどん大きくなり、それが穴になり、その穴から、毎日膿が流れるように出続けました。それは約半年も続きました。祖母は「毒が出よるんよ。」と言っていました。

吹き出物の治療 絵:富士原芽依

私は原爆の後、人とおしゃべりをすることができませんでした。暗い顔をしていたようです。15、16歳ごろだったと思いますが、兄・吉太郎が結婚し、我が家に20歳のお嫁さんの哲子さんがやってきました。それまで90歳半ばの祖母と兄と弟の4人暮らしで、五日市の姉や神戸の姉が家のことなどをやってくれていました。一番喜んでいたのは弟でした。弟は哲子さんをまるで母親のように慕っていました。哲子さんは、祖母や私たちの世話でさぞかし大変だっただろうと思います。私は哲子さんに赤ちゃんが生まれた時、ようやく明るさを取り戻せたように思います。

私が高等女学校の4年生になった1948年に教育制度が6-3-3制に変わりました。ですから私は、高校1年生になったのです。学校の名前も広島市立第一高等女学校から二葉高等学校に変わりました。そして翌年には舟入高等学校へ再び校名が変わり、男女共学になりました。それまで多少のケロイドがあっても平気だった女の子は、共学になると恥ずかしそうに隠したりしていました。男の子は平気だったようです。

1951年、高校を卒業しました。就職先を探すのも、被爆者であることが分かると断られました。結局県の臨時職員として働くことになりました。その後お見合いの話もいくつかありましたが、やはり被爆者と分かると断られるのです。当時、被爆者は差別を受けていました。

また1953年から、最近まで、毎年ABCC(原爆傷害調査委員会。現・放射能影響研究所)で健康診断を受けるようになり、ずっと貧血だと診断されていました。検診時にはタクシーが迎えに来てくれて、ガウン一枚を羽織り、あちこちの部屋に連れ回され、様々な検査を受けます。冬などはとても寒かったと記憶しています。ここ数年は2年に一度検診を受けています。

私は1957年、25歳の時にやはり被爆者である夫とお見合い結婚をしました。子供は女の子と男の子が一人ずつ生まれました。

夫は被爆時には、観音町(広島市西区)の三菱重工に動員されていました。翌日、周りが落ち着いて、市内中心部にいたであろう父や姉を探しに行ったそうです。お父さんは土橋(爆心地から約600メートル)で仕事をしていました。そこで、お父さんがいつも身につけていた懐中時計が見つかり、それを持っていた遺体からお骨を拾い、持って帰ったそうです。お姉さんは勤めていた銀行が、爆心地から約700メートルの八丁堀にありました。たまたま生き残った銀行の人に出会い聞くと、「お姉さんはお茶の準備をするために炊事場におられたよ。」ということでしたが、遺体すら確認することはできなかったそうです。お母さんは水主町(現・広島市中区住吉町、爆心地から1.2km)にある実家におられ、爆風で約30メートルほど飛ばされたそうです。

夫は、1964年、35歳の時に脊髄に癌が見つかり、入院して7ヶ月で他界しました。当時、医者からは原爆の影響があったかどうかは判らないと言われましたが、夫は原爆が投下された翌日、爆心地のあたりを、父や姉を探して歩き回っていました。私は専門的なことはわかりませんが、絶対原爆と関係があると思っています。夫の死後、姑と小姑と幼い子供2人の生活が私の肩にかかってきました。

私は定年退職するまでは、広島県の職員として働き、その後は79歳まで嘱託職員として廿日市市役所などで、被爆者からの相談を受ける仕事をしていました。ほんとうに周りのみなさんのお陰でなんとか生きてこられたと感謝しています。

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