村人の手記・証言/広島第一陸軍病院戸坂分院関係者

1.原爆投下後の戸坂分院

広島陸軍病院から、戸坂(へさか)小学校へ疎開(そかい)したのは昭和20年(1945)8月3日のことでした。戦争もいよいよ終局をむかえようとしていたころで、その激しさはますます強まり、田舎での設備などもちろんあろうはずのない所での毎日は大変なものでした。

昼間は負傷された兵士の方々の手当て、そして夜は近所の民家にわかれての寝泊りの生活でした。 あの日、8月6日の朝も、いつものように「今日も暑くなりそうね」などと話しながら、学校へむかったのです。学校に着いて掃除をすませ教室へはいろうとしたとたん、8時15分、ドカンという音がしたかと思うと、あたりは異様に明るくなり光がさし込み、ガラスの壊れる音、キャーというだれかの叫び声・・・、何がなんだかわからないままに、私も思わずその場に伏せてしまいました。

足はがたがたに震(ふる)え、いったい何事が起こったのかとみんな青くなって互いにおびえるばかり。衛生兵の人が、外に出てみなさいと言われ、そのままに外に出てみると、「あそこ あそこよ」という声。その声の方向に目をやると、広島の空は真赤で雲のようなものが異様な形でふわふわと広がり、天にむかってあがっているのでした。

これは大変だ、きっと爆弾(ばくだん) が落とされたのだと思いながら、部屋に帰っても仕事も手につかず、おろおろするばかり、そうこうするうちに、30分くらいたったでしょうか、ひどいヤケドを負った人々が、次から次へとやって来ました。

頭の髪はちぢれ、皮膚(ひふ)はたれさがり、人間の姿とは思えないような、なんともむごい姿でした。ぞろぞろと、あとをたたないこの人々を迎える私たちの気持は、なんといったらいいのでしょう。言葉にならない恐怖でした。

人々は運動場に立って、「水を下さい。水を下さい」と口々に泣き叫び、うめき、まるで地獄(じごく)の絵そのままです。

私たちは、衛生兵の言うまま、テントをはり、机を運び出して、さっそく手当てにあたりました。手当てといっても薬も十分でなく、気休めの程度のものでしかないのですが、それでも私たちは夢中で続けました。しかし、人々はどんどんやって来て、運動場はもう歩く所もないほどにふくれあがってゆくばかりです。叫び声、うめき声、そのなかで1人、2人、そして次々とその場に倒れてゆくのです。夕方になるころには、その人々の死体が山となって近くの裏山で村の人々の手をかりての死体の処理。戸坂の空は黒い煙に包まれて、その夜をむかえたのです。そんな毎日が続きました。

今思っても、いったい何千人の人たちが、この戸坂に逃げてこられたことか、見当もつかないことです。静かな村はいっぺんに騒がしくなり、村の人たちもみんな一生懸命働いてくださいました。

8月の暑さは厳(きび)しく、一向に涼しくなる気配もなく、毎日毎日、くたくたになっては夜をむかえる日が続きました。空は煙の途絶えることなく、死体のにおいで食事もすすまず、みんな1日1日と憔悴(しょうすい)してゆき、ようやく患者(かんじゃ)も少なくなり、だいぶ落ち着き始めたころ、やっとその年のお盆を終戦とともにむかえたのでした。

31年たった今、戸坂の町も大きく広がり、当時の惨状など思いもよらないことです。当時のそういう経験をしてきた私たちだけの思い出としか残っていないようです。学校の近くの裏山には多くの犠牲者(ぎせいしゃ)の方々が眠っておられます。その人々の魂が、今も土の中から今の町を見ておられるようで、思わず手をあわせたくなる思いです。

川本 スマ子(当時・陸軍病院戸坂分院看護婦) 記





ここに掲載する文章の著作権は戸坂公民館にあります。

Some Rights Reserved