村人の手記・証言/避難してきた被爆者

1.原爆から戸坂にかかわる思い出

当日、原爆によって兵舎(へいしゃ) の下敷きになった。私たち第7部隊の将兵は、夕刻ごろまでに下敷きになったまま、なお脱出ができない人たちの救出に全力をそそぎましたが、隊の人事係りの小倉(おぐら) 曹長(そうちょう)がなかなか発見できず、必死に探しました。隊の功績係の青木勇(いさむ) 一等兵の記憶により、原爆が投下される直前に、確か曹長は功績室におられたはずだと言うことで、つぶれた兵舎(へいしゃ)の下から自力ではい出し、元気で働ける者が集り、階下にあった功績室の位置に見当をつけ、屋根がわらを除き、折り重なった木材を取り除き、やっとのことで功績室を掘り当てました。そこに予想通り小倉曹長を見つけることができましたが、人事不省(じんじふせい)で大きな柱が横たわった上に頭がのり、その頭の上に太くて長い梁(はり)が重なり、恐ろしい状態でした。

救出にはまず頭の上の梁に重なっているすべての物を取り除き、その上で梁を持ち上げなければなりません。元気な者7〜8名で、その梁の端を持ち上げようとしたが持ち上がらず、器材庫から見付けてきたジャッキでやっと持ち上げ、小倉曹長を救出しましたが、背中をたたいても大きな声で呼んでも正気にもどらず、つぶれた飯盒(はんごう)に汲んできた水を顔にかけたところ、ようやく正気を取りもどしました。

幸いその外には外傷はないのですが、何分大きな木材で頭をはさまれており、気づいても意識ははっきりせず、重体であると判断し、どこかに収容して早く手当てをしなければとの意見があり、とりあえず工兵橋(こうへいばし) を渡った所にある工兵隊の作業場に運びましたが、広い作業場の草むらの上は、すでに市内で被爆し傷ついた人々で足の踏み場もなく、重傷でうめく声が満ちていました。そうした中に曹長を収容する場所もない有様でした。

何分曹長は中隊の人事をつかんでいる重要な人で、早く手当てをし、元気になってもらわなければとねがう我々は、心が急いでおりました。

そうした時、戸坂(へさか)の国民学校まで行けば医療品も有り、手当てがしてもらえると言う話が伝わり、まず戸坂まで曹長を運ぶ事になりました。隊から見付けて来た担架に乗せ、5〜6名の兵で担ぎ、牛田(うした)を出発したのが午後6時ごろであったと思います。途中、全身焼けただれた、男女の見分けもつかないような重傷者が、ふらりふらり重い足取りで戸坂へ戸坂へとつながっておりました。

戸坂の国民学校は、校庭も校舎の中も市内からたどりついた負傷者で、すでに足の踏み場もない程の惨状でした。小倉曹長を収容できる場もなく、やむを得ず民家に連れ込み、手当てをする以外すべが無く、担ぎ込んだのが、学校の近くの高台にある萩野さんのお宅であったと思います。快く迎え入れてくださった一室に、曹長を寝かせることができましたことは、本当に幸せであったと思います。ともに担架で運んで来た兵士は、本隊で任務が待っているので、私1人を付き添いに残して、牛田へ帰って行きました。

こん睡状態で頭や顔が人間のものとも思えないくらい、はれ上がった小倉曹長の手当ては冷たい井戸水で冷した手ぬぐいで冷すだけで、薬もなく心細い思いをしましたが、昼夜の別なく介抱したかいがあって、4〜5日ではれも徐々にひき、熱も下がってきました。それもお世話になった萩野さん一家が大変ご親切で行き届いたお世話をしてくださったお陰と思います。

病状も少し落ち着いたころ、原爆投下当時の戸坂の様子を萩野さんの皆さんに聞きましたが、一瞬閃光(せんこう)が走り、ドーンと言う音がして、気が付いて見たら広島側の壁が爆風ですっぽり落ちていたそうです。私ども工兵隊では閃光は見ましたが音は聞こえませんでした。音とともに兵舎がつぶれたからだと思います。

約1週間、萩野家でお世話になっている間に、曹長も次第に元気を取りもどし、本隊の事が気懸かりで、帰隊するとの事で私も一緒に牛田へ帰りました。

その後、私も復員し、苦しい終戦後の生活がはじまり、心に残りながら、今日まで1度も戸坂を訪ねる機会もなく、お世話になった萩野家の皆さんの消息すら知らず、誠に申し訳ないと思っています。それもあのころの思い出は、あの悲惨な、いやな原爆にかかわる思い出であり、できるだけ思い出したくない故かも知れない。

今城(いましろ)国忠(くにただ)(当時 軍人) 記





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