村人の手記・証言/避難してきた被爆者

2.救援活動に従事された戸坂婦人会の方に感謝して

昭和20年3月、白島(はくしま)小学校卒業と同時に僕は両親と離れて祖父のいる田舎、安佐町(あさちょう)久地(くち)へ疎開していた。8月5日、あちらこちらの都市の空襲(くうしゅう) がきびしくなり、母方の祖母が、広島の家族が危ないから田舎に帰るよう、迎えに行ったらと言って来たので、早速広島にそのことを伝えに出た。

翌朝6日、久し振りに白島の自宅で家族そろって食事を終え、父はちょっと田舎へ帰って来ると言って可部(かべ)線横川(よこがわ)駅に向かう。母や姉も2階にあがり僕は生後8ヶ月の妹を抱いてベランダの近くの窓に腰をかけ、飛行機の音が聞こえるので空を仰向いて飛行機を見ていた。

「ピカッ」と閃光(せんこう) が走る。思わず「お母さん」と叫ぶ。一瞬目がくらむ。同時に隣の部屋まで吹き飛ばされ天井の下敷きになり、その上に土や瓦(かわら)が散乱して、姉と僕は身動きできなくなってしまったが、母に支えてもらいやっとはい出る。

現在の牛田(うした)大橋と、安田(やすだ)学園の中間くらいの土手に避難する。しばらくすると、川向こうの牛田側の家がどんどん燃え上がり、白島の土手の草むらにうつる。兵隊さんに、早くここを逃げるように言われ、工兵橋(こうへいばし) の方へ行く。この土手で父と合う。父は横川駅発車寸前の電車より降り、三篠(みささ)の鉄橋は、まくら木の燃えているのを渡り、家族を探して引き返して来た。姉は工兵橋を渡って動けなくなり、工兵隊の作業場で父と休む。

祗園(ぎおん)の小学校には医師が救護に来ておられると聞き、母と僕と妹の3人で不動院の方向へ歩いて行く。途中、戸坂方面から自転車で来られた男の人が、僕を自転車に乗せてくださった。母が祇園の小学校にお願いしますと言ったのが、相手の人が勘違いされたのか、戸坂(へさか)小学校へ運んでくださった。

母は祇園に着いて学校やお宮、あらゆる所を探しても僕が見つからなく、その夜は祇園に民宿させていただき、翌日も探し求めて、あれでも戸坂かも知れないと来て見ても見つからず、戸坂小学校の屋内は兵隊さんばかりで中へ入れなかったらしい。一般の人は屋外にテントを張り、そこにたくさんおられ、その中を探しても見当たらず、祇園と戸坂を東奔西走したらしい。

自分は戸坂小学校に着いて、お水が飲みたいのでお水のある所を探していると、井戸ポンプのところにおられた白いエプロン掛けのおばさんに「お水を飲んだらいけないよ。死ぬから」と言われ、口をすすぐだけちょうだいと言って一口もらった。そのおばさんが「あんたは子どもさんじゃろうに。ひどうケガをしてかわいそうに」と言って、手押しポンプで水を出しながらどろまみれになった背中をきれいに洗ってくださった。

爆風を背に受けた時、前の建物のガラスの破片で、無数の裂傷(れっしょう)と、天井の下敷きになった時、大人の握りこぶしくらいの傷口があき、胸椎(きょうつい) 2本骨折したのであるが、その時はひどく痛むとも思わなかった。痛むのは通り越していたのであろう。兵隊さんの大きなシャツを着せてもらい、おむすびを2個いただいた。とてもおいしかった。右側頭部に受けたヤケドで、だんだん顔がはれてきたらしい。

それから廊下に寝ころんでしまい、夜とも昼ともしらず、6日から9日の朝まで意識不明と言うか、とにかく覚えずにこん睡していたのである。

9日の朝、兵隊さんに起こされて目を覚ました。「君は兵隊じゃないだろう。外へ出なさい」と言われ、テントの所に行ってころんでいた。しばらくして父のせき払いの一声が耳に入ったような気がした。顔がはれて、目は容易に見えない。両手で開くようにして見た。たしかにずっと向うに行っているのは父の後姿である。一生懸命父を追った。テントの綱に何遍(なんべん)もひっかかり、ころげそうになり、寝ている人の足につまづいて、しかられながらやっと父のそばに近付いて、「お父さん」と呼んだ。 「おお正春かい」と父の声。「うん」と返事をする。

姿だけではどう見ても我が子とは分かりかねるほど変わり果てていたらしい。「ひどうはれたんじゃのう」と言った。昨夜、姉を連れて戸坂まで来て泊まり、僕を探し、朝もう1度探してまわり、見当たらないので校門の方へ出ていたそうである。

姉は門の所でゴザを敷いてもらって座っていた。僕を見るなり、あまりの変わりように目をそむけたと言う。顔は大きくはれ、大きな白い兵隊さんのシャツを着、つえをついて立っている姿は、本当に地蔵さんそのものだったと、今でも思い出話の1つとなっている。  少ししてから、母が訪ねて来る。父が「正春がいたよ」と言った。母はあまりの変ぼうに驚き、「まあ、あんた正ちゃんね」と問いただす。6日以来、家族が離散したのが、やっとこの9日の朝、ここで出会ったのである。

母が先ほど、ここに着いた時、炊き出しされるところに梅干が桶(おけ)にたくさんあったのでもらって来てあげようかと言ってもらいに行った。すると、その桶に小さいのが1個残っていたそうで、それをもらって来て姉と2人に分けてくれた。すると、そばで見ていた若い娘さんが転げるようにして来て、私にもちょうだいと言われ、姉が「お母さんあげんさい。お母さんあげんさい」と言ったけど、小さな梅を1個を2つに分け、もう口にしているもので、どうにもならなかったと述懐(じゅっかい)している。

この門の所には、数時間いたのであるが、ちょうどそのそばに看護婦さんが、兵隊さんの死体を担架(たんか)で運んで来ては、ばったんとなげ出しては繰り返し運び、あれよと思う間に積み上げられていた。

やっと家族が一緒になって、矢口(やぐち)の小学校へ行く。ここが白島の避難場所となっていた。背中の傷の治療を受ける。2昼夜は傷が痛むので苦しみ、両親はほとんど寝ないで看病してくれる。軍医さんが、「この子はもうだめかもわからんから、気をつけてやりなさい」と言われたそうである。それから4〜5日たってから、やっとおかゆが食べられるように元気になり始め、8月末になりやっと田舎に帰る。あの時、父に会えなかったら、母に会えなかったら、そのままこの世に生きることはできなかったであろう。

昭和35年、勤務の都合で、奇遇(きぐう)にもこの戸坂に住むことになり、あの日、あの時、お世話になった婦人会のお方、手押しポンプで傷だらけの背中を洗ってくださったお方は、今でもご健在であられるだろうか。もしも再会できたら、お礼を申したいと、いつも胸の片すみから離れない。たとえ時が移り、人は変わっても、この地で受けたご恩への感謝は生涯忘れないであろう。

戦争による苦痛は身をもって体験している。無惨に死んでいった人々の山、肉親を失った悲しみ苦しみは、実際に出会った者でないと分からない。8月6日を迎えるたび、「世界よ、いつまでも平和であれ。」と静かに祈るよりほかない。

上本 正春(かみもとまさはる) 記





ここに掲載する文章の著作権は戸坂公民館にあります。

Some Rights Reserved