村人の手記・証言/戸坂村の人たち

1.混乱の戸坂村

8月6日は朝早く、軍事産業で山の中へ工場を造るため、動員をかけてもらった村の人を迎えに矢口(やぐち)へ行った。
7時半ごろ、B29 芸備線(げいびせん) の上を通って北へ行ったのを見た。
30分してまた、府中(ふちゅう)の方から来た。
見ていると何か落とした。
1〜2分くらいしたら、燃え始めた。
重油(じゅうゆ) を使うので、高陽(こうよう)コウフ(注・工場名)に爆弾を落としたのだろうと思った。

それで、急いで学校(矢口)へもどると、血だるまになった人、ガラスが刺さった人が、学校に来た。
そのうち、6〜7人、動員をかけた人が集ったが、すぐ解散させて、戸坂の家に帰った。

家に帰ってみると、書院(しょいん)の障子(しょうじ)の上の建具が庭のすみまで飛び、ふすまへガラスが突き刺さり、天井(てんじょう)が上へ向いて吹き上がっていた。

当時、軍の文官だったので、10時から10時半ごろ学校へ行ったが、だんだんケガ人が来始めていた。
当時、万一戦災にあったら、広島市が計画を立てて、どこの地区はどこへ行けということになっていた。
が、戸坂(へさか)に病院があるというので、みんなどんどん戸坂へ来始めた。
これではいけないと思い、中山(なかやま)と天水(あまず)に、一般の人は奥へ行くように紙に書いて持たした。
そのうち軍人もどんどん来た。

11時ごろ、原田(はらだ)の長(ちょう)さんが泣く泣くもどって来た。みんな、とにかく震(ふる)えて何もできないでいた。
勝つことだけを思っていたので、断腸(だんちょう) の思いだったのであろう。

軍人は兵隊の帽子のところだけ髪が残り、あとは焼けていた。どうしたのかと思った。
学校はケガ人でいっぱいになり、台帳を作ったが書かれない人もいた。
治療は、4斗(と) だる14〜15個にヨウチンを入れ、それを塗ったりした。
死体は正池(まさいけ)で焼いた。

学校だけでは収容しきれなくなり、軍人を並ばせて、15人平均くらい、民家へ配った。
在郷(ざいごう)軍人に配らせた。
軍人は10〜15日くらい民家にいた。
当時戸坂は300軒くらいの家があった。

当時、バタンコが1台あったが、それが唯一の連絡の方法であった。

当時戸坂には、多くの軍需品(ぐんじゅひん) があり、また、役柄、市のどこに何があったかをよく知っていた。

9月に大水が出たので、軍需品の小豆(あずき)をみんなに配った。

石原 喜代三(いしはらきよそう) 話