村人の手記・証言/戸坂村の人たち

9.戸坂惣田の被害

最初、空襲(くうしゅう)警報(けいほう)が鳴ったので、空襲にあうと爆風でガラスが割れるため戸をあけていた。

警戒(けいかい)警報に変わったので出かけようと思って戸をしめかけた。あと1枚という時、ヤマズミサンの一番高いところより少し右よりのところに十五夜の月の様にまるい大きな真赤な火が見えた。音は聞かなかったように思う。おじいさんに知らせようと思い5〜6歩部屋に入りかけたら爆風がきて、モンペの上からひざにガラスが突き刺さって傷をした。戸のガラスは全て割れ、2間(けん)半奥の柱にガラスが突き刺さったが、今も残っている。奥の戸はしめ、かぎをかけていたため、そのまま外に倒れた。天井(てんじょう)は吹き上げた。後片付けが大変だった。(奥様の話)

2時間後くらいから、広島からどんどん傷を負った人が来た。6日の夜には常会長(じょうかいちょう) )から割り当てられた兵隊さんが家に来た。兵隊さんは傷の軽い人だったので、治療は学校へ行ってしてもらっていた。傷のひどい人は学校にいたのだろう。食事は、家庭で出す事はなく軍から出ていた。いよいよ帰る時、着て帰る物がないので、家にあったものを着せてあげた。

婦人会)で、学校の方へ看護に行った。学校の病人は「水をくれ。」と言っていたが、水は飲ませてはいけないと聞いていたため、与えなかった。婦人会は前もって、釜(かま)、薪(まき)を車に積んで炊(た)き出し)の訓練をしていた。

山の関係で、惣田の方が被害が一番大きかったのではないだろうか。
私は当時、空鞘町(そらざやちょう)の履き物製造の有限会社に勤めていた。当日は集金に行く予定だったが、朝、義勇隊(ぎゆうたい)訓練があったため、昼から出かけようと思って行かなかったので助かった。

山本 群三(ぐんそう) 話