村人の手記・証言/戸坂村の人たち

8.戸坂での8月6日

原爆投下の日のことを思い出すと、当日はいつものようにあふれるような乗客をのせた汽車で出勤する主人を送り出して、朝食の片付けをすませた後、トイレに行くため西側の縁側に出ると、西の方向に、今まで見たこともない大きな真紅の玉のようなものを見たので、5歳の娘に「早く来てごらん、きれいなものが見えるから」と、声をかけたとたんに、一瞬暗闇になり、気がついた時には、8畳の部屋の中ほどに立っていた。

たんすや食器棚、鏡台は倒れ、障子(しょうじ)にはめこまれていたガラスはこっぱみじんに飛び散り、重い畳まで浮き上がって足のふみ場もないように無惨な様子に変わっていた。

3歳の長男はまだ寝ていたのが幸いしたのか、ケガもしていなく、早速(さっそく)、おぶって部屋の片付けにとりかかったものの、どこから手をつけていいのか、落着いて後片付けをする気もおこらなかったので、主人に帰ってもらうため役場へ電話をかりに行ったが、助役(じょやく)さんが、電話なんかかかりませんよと言われ、すごすごと家に帰ってどうにか一部屋だけ座れるようになった。

ひょっと外を見ると、主人が、頭に包帯(ほうたい)を巻き、血だらけになった白い開きんシャツ、ズボンで、直立不動の姿勢で帰って来ていた。体をちょっとでもまげると痛むとの事で、あわてて寝床をとり、抱きかかえるようにして横になったが、それきり動けない状態で寝たきり。

そうこうするうちに2人の兵隊さんが、ちょっと休ませて欲しいと言って縁側に腰をおろしたが、その姿は何ともいたましく顔は赤くはれあがり、まともに見られない姿だった。今でも主人とよく、あの時の2人の兵隊さんの名前を聞いておかなかったことを残念に思っている。

当時、戸坂小学校が臨時の陸軍病院となっていたので、広島方面からぞろぞろと被爆者(ひばくしゃ)が行列(ぎょうれつ)のようにしずしずと歩いて来ていた。私は軍医さんに、主人の容態(ようだい)を話し治療(ちりょう))を頼むために、小学校へ行ったが、治療を受ける人の長い長い行列のため、いつのことになるかわからないので待ち切れなく家に帰った。

あそこ、ここと焼け付くような熱い校庭の土の上に身を横たえていたその中の1人が、通りすがりの私に、何か陰をつくってくれないかとたのまれ、どこにあったのか、どこからどうしたのか今でも判らないのだが、1枚の戸板を持って来て、両へりに、つっかい棒をして直接太陽があたらないようにしてあげた。

誰も彼も話をしている人は全くなく、黙々としていた。それかと思うとおじいさんとお嫁さんらしい人が、死んでいる赤ん坊をだっこして、どこへ行くのかとぼとぼと歩いていたが、言葉を交わすでもなく夢遊病者(むゆうびょうしゃ)のように、ただ、足を運んでいるような感じだった。

そのころ、毎日のように、私たちが疎開(そかい) していた家のおばさんから、あそこにいた兵隊さん、どこそこの兵隊さんも死なれたとか、と聞いた。農家では、火葬(かそう)する薪(まき)の割り当てがあったようだが、私たち疎開していた非農家には、その割り当てはなかった。

疎開先の岡さんの宅では朝登校したままの2人の子どもさんが帰られないので、まだ帰らない、まだ帰らないと心配しておられたが、夕方おそく帰ってこられ、ほっとされたようだった。

原田 静香 記